感想 青の帰り道2018/12/09 22:57

盛大にネタバレしますよ。


いろいろちぐはぐな映画。
基本は、少女コミックです。悪いとは言わない。

つじつまはちゃんと合わせている。大変だったと思います。
「台風クラブ」で細い手足で似たような感じで走り回ってた工藤夕貴が、こんななったんやねえというのがちょっとショックであった、あまり最近のこの人を見てなかったもので。

カナ、この人が歌手したいことを軸に話が進むのですから主人公といっていいはずですが、それにしても人物像の掘り下げが足りない。
高校にちゃんといって自己肯定的な性格で鍵盤もあんだけ弾けるんだからそこそこまともに育てられてきたと思うのだが、家族の影がいっさいないのが不思議。このへん、はじめのうちに説明があったのが私の耳が悪くてわからなかったのかもしれない。字幕のない映画はわかりにくい。
この人は基本的には流されてるだけの人です。
で、アル中演技にドラッグに手を出しかけるところまでいくが、基本ヨゴレてないんですよ。
人物設定に文句つけるのは筋違いにしても、そもそも、冒頭でもタツオの部屋で夜タツオはこの人を微笑んでみてるだけ。結構な話やけど、なんかこの女優には性的なもんの気配すらさせたらあかんかったんかいな。
使い方に制約があったならそれはかわいそうではある。

で、キリが、自己肯定できず、その結果(とだけは言えないが)いろいろなものがまずく回ってしまったのが、「あの人は大切なことほど言えない」という言葉で母親と和解、自分を許すことですべてがうまく回るというおとぎ話でして、お話としては実はこちらがメインです。いちおうキスもこなしている。
カナとは対照的に家族の描写の厚いこと。各人問題点のみ描きましたというのはわかるんですけどね、極端で違和感すら感じる。
こちらからみると、カナは狂言回しに過ぎない。巻き込まれたとさえいえるカナが怒るのはまああたりまえやけど、そんなことでまっすぐ歩けないカナもカナやで。

最後の、ラジオから流れるカナの「青の帰り道」は、画面としてはわかりますけどね、業界との関係も何とかなったという説明も兼ねてるんだろうが、地味にライブハウス巡り、というのがリアルなとこなんではないですか。
救いがほしいのかもしれんけど、あまりの嘘くさいハッピーさにエミール‐ヤニングス「最後の人」のオチを思い出してしまった

ところで、狂言回しのカナのまわりにこそ、都合よく神様がうろうろする。
そうしないと話がうごかないからです。

医者の息子で、一緒に歌をやろうとして上京できず死ぬタツオが、この人間関係の中で唯一のクリエーターですね。
この人がカナを歌に誘い、死んでなお、その歌でカナを救う。関係性で言うと、むしろカナはクリーチャーで、カナの暴走はクリエーターを失ったからともいえる。
お話としてみると、べつにこの人が死ななくても似たようなオチにできると思うのですよ。映画がこの時間では済まなくなるけど。

一方で、実生活において要所でカナの背を押しもしくは守る、リョウというのが、悪いことはするけどむかしを忘れてはいないアツいやつという感じで現れる。
この人のありようが、これまた、なかなかご都合がよろしいのです。タツオに犯罪の片棒担がせる、つまり具体的な行動をとらせる一方で、カナの転落を押しとどめ、最後はマネージャー上司への復讐に至るのだから、この人は実はカナが実現できなかったことを行う、カナの分身といっていい。
それにしても、「世の中はそんな甘いもんじゃねえ」というセリフがここまで裏切られるとはねえ。ここも、カナの空々しい転落の描写に近似している。脚本のクセですかね。

外部世界に出ない原初的な幸せぶりを描き、ストーリー上都合いいタイミングで子供が倒れてキリに転機を与える友人夫婦のシークエンスは、なんであそこでキリが泊まり込むのかいまいちわからんかった。
リョウといっしょに作業場に入る奴は、葬式での演説のために設定されたんですか?
保険会社に入ったやつに至っては、もうちょっと使い途なかったんかな。出世しないながらも元の人間関係から完全に外れていくという使い方もあったろう。それじゃ話が閉じないのは、わかるんやけどね。

各人の描き方がアンバランスながらも青春群像劇をやったということなんでしょうが、付き合いの狭く密度の濃いマイルドヤンキーの世界観をそのままどこにでももっていく違和感に、町の子のつもりのおっさんには、なかなか居心地が悪かった。「ほんものの仲間」はその中にしかいないという、再定義できない閉じた世界です。
いや、こういう世界こういう人間関係を描いたこと自体は、お話としてありですよ。
過去の自分たちを振り返るように、彼らはラストで高校生たちを振り返る。
未来系のノスタルジーというのは、いかにも少女マンガにありそうな総括です。あのねえ、あんたらまだ10年しかたってないんよ。その先も人生は続くんですがね。

そうじゃないから気に入らないというわけじゃないが、人間関係をばらばらにしながら青春はただおわっていく、というほうが、後から感じての実感に近いのは、「草原の輝き」をみた人はわかってくれるだろう。あの映画も、彼氏が手を出してくれなくてハイティーンの女の子がおかしくなるという、いまとなっては訳の分からない話です。ナタリー‐ウッドだからなあというのは禁止。
だからこそ強いつながりを描きたかったとか、なんとでもいえるけど。

閉じた人間関係の中で、死ななければなんとかなる、死んでも人を救うことができる、死んだ人は感謝と思い出に包まれる。シビアなようで実はなんと肯定的な物語であることか。かれらに害をもたらす外部の「オトナ」たちは罰せられ、救われない人は誰も出てこない。
もちろん、ここでも、これはこれでありです、お話として。

そこまで都合のいいお話を、役者を一人交代させて撮りなおしてまでも、つくりたかったわけです。なにが監督をそこまでさせたのか、考えてみたのですが。
挫折しても死んでなおクリエーターこそがすべてを救うと語りたかったんではないですかね。なんか、淀長みたいなまとめ方と自分でも思いますが。

自分が死んでも後につながるものがあればそれでいいという、開き直った自己肯定ぶりは、現世への諦めの表裏にあるものなんでしょうね。

宮崎駿は自分が死ぬ話なんかぜったい作らんだろうと、なんとなく思う、なんで宮崎と言われたらわかりませんが、しぶとそうですからね、あの方。

そこまでいうと、この映画はまあ、仏教説話みたいなもんかな

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