感想と考察w 「けものフレンズ」2017/04/12 13:02

ネタバレしますよ。

CGがひどいが、慣れます。そして、ちゃんとしたアニメでやってるところが想像できなくなる。後にいくほど動きが止まってセルっぽくなるように思う。
設定のほうは相当作りこまれています。終始いろいろ、特にどうでもいいような小物まで整合性とれてるのも、CGなのでやりなおしがセルより容易だからじゃないのかな。事前設定を甘く見すぎかw

ヒト化された動物たちは、種に応じた個性を与えられつつ「かわいい少女」に特化している。みんな仲良し、ふだんやってることは全部たーのしー「ごっこ」で、致命的なこともおこらない。思わせぶりな例外を除いて、基本的には悩みも葛藤もない。自己犠牲もほとんどためらわない。総攻撃は、感動的ですらある。
いっぽう、まじめに設定するなら、退去にせよ滅亡にせよ、この世界から人間が去る理由があるはずで、いろいろコワそうな素材が適度に撒き散らされてる。それなりにシリアスそうなネタが積み上げられていくので、みていたらそれなりにはまってしまう。

つまり、ぬるいやりとりにひたるか、世界について深読みするかしか、見る側はすることがない

しかしなんで、かばんちゃんは、体毛にもどらんのか。根本設定に属するところはもうちょっと分かりやすいほうが有難いのですが、ラスト近くに来る、悟空の毛からできた分身が居場所もとめてうろつくような座りの悪さ。余韻?w
「けもの」は「けだもの」で、毛の生えた生き物を指す。だからここに鳥や爬虫類を入れるのは本来は違うはずで、むしろ、「毛そのもの」から再生されたヒトが「フレンズ化」したという、かばんちゃんのほうが近しい。
「けものフレンズ」という題名が、かばんちゃんは何者かという謎の回答そのものだった、という誰でもしそうな考察も、しておきます。「毛者」やもんな。

ここからあと、世界はどうなっていてかばんちゃんはどうなっていくのか。
たぶん先に行くほどお気楽にすまなくなっていきそうだが、そこをどこまでお気楽に仕上げるかが、あるかもしれない第2期の課題かもね(適当)。
このまま放りっぱなしというのも、じゅうぶんありでしょう。商品として考えると、考察班がもりあがって大成功に至ったので、それを再現してこれ以上のコストパフォをもたらすのは、なかなかむつかしいのでは。

はじめのとっつきにくさを超えたら、あとは最後までひとにやさしくて、ひたってしまう。ドラッグみたいな感じです。

少女たちだけの放課後」に感情移入できん向きからは拒否反応出るでしょうな。無害だし、基本的には退屈です。それがいいのですけど。不思議の国のアリス、も、そのように形容する向きがある。
ゆっくり終わりつつある、放棄された楽園自分探しする主人公のわかりやすい成長物語。文明の痕跡をめぐる、3人組のロードムービー各種少女アニメの設定を総集編的に引用。芸を見せまくる声優陣
ニミズム的世界観日本ならではの、理屈好き大きなおともだち向けアニメの、現状における極北と思う。
まあ、そう深読みさせてくれるということですがw

いった店 台湾台中 感想 「キングコング」2017/04/05 08:54

4年ぶりの台北では、既出中央市場」にいった。一皿余分に出てきたような気がする、どっかに被害者いるんやろな。




台湾ドルも高価くなってきて、関空のいいレート選んで4円、カードなら3.8円。
一皿100元は決してすごくは安くない。注文4皿にビール2で5‐600元でした。
夜の10時過ぎてからずらずら一人で皿並べた私も私ですが。
食いきれませんでしたが「食わんの?」と店員に仕草された。
まあひともてなしてるんじゃないし、一人でなんでこんなに注文する、というのは当然の疑問。

台北は遅くついて飯食って泊まっただけ、連れたちと台中で待ち合わせたので、蛇を食う余裕もなく。早朝移動しましたが、高鐵使いやすい。自動車も台鉄も右通行なのに高鐵だけ左なのだね。
以下、台中でいった店。

台中肉員
千と千尋で、豚になる前の父親が食ってた、たぷんとしたもののモデルと言われる。肉をでんぷん質のものでつつんで揚げたりしてるようです。うまかったけど撥ねが飛ぶね。





鼎王麻辣火鍋
市内に3軒あるようでしたが、公益路の店にいった。若いチーフスタッフの深々としたお辞儀はパフォーマンスに近い。お辞儀を返すのは日本人だけらしい。
日本でもありそうなコンセプト火鍋屋。
台湾人レセプションが日本人並みに英語出来ない、わからんことにはとりあえずイエスというし、ちょっとトラブりかけた。
味をマイルドで設定注文したらぜんぜん辛くない。店は東京にもいくらでもありそうな雰囲気なので、くさいもんが好きな向きにはどうかなあ。




台中市役所カフェ
市役所のむかいでむかしの建物を利用してる。いい感じの喫茶、食事可。急須に葉がない




宮原眼科カフェ
むかしの眼科医院の建物を利用してる。目医者ならいかんとw
図書館ぽい内装は、ハリポタの校舎の感じがした。






路面側の店のアイスクリームが有名なようで絶えず車止めて買ってる人がいる。中のおしゃれなカフェは食事っぽいこともできますが、ここも急須に葉がない



以下、ネタバレします。

映画 「キングコング: 髑髏島の巨神」
陸上未確認巨大生物という訳で「ムートウ」も出てきて、そもそもキングコングはムートウを退治する側という話。なんかハリウッドゴジラやなと思ったら、今後そっちにつないでいく模様。極秘組織のモナークもでてきた。マーベルのヒーローもの映画のような感じで怪獣勢ぞろいかな。あの壁画はどうみてもキングギドラ。私としてはモスラさんが気になる。
原住民のでかい砦のような木造ゲートはいちばんはじめのキングコングからの踏襲で、とてもいい感じですが、キングコングじゃなくムートウ対策というのがなんだか。あそこにキングコングが立ちはだかるのがいいのに。
キングコングがヘリ相手に戦うところは、エヴァ旧劇の弐号機そのもの。監督が日本のアニメや庵野さんのファンらしい。
シンゴジラなんかは国外で一般に売れる要素はないけど、こういう制作サイドのコアなファンのおかげで、日本の特撮アニメが、世界市場での一つの流れになっているのだなあという感慨。ハリウッドゴジラでも感じましたが、平成ガメラがこうもバリエーションを生むとは

長くなったので以下にあったけものフレンズの感想は別項目にします。

感想 映画「この世界の片隅に」2017/03/23 23:30

機内でみたもので、映画を見たと胸張れないですが書く。ネタバレします。

英語題は In this corner of the world. らしい。世界のこの片隅に、やね。

戦中もの広島ネタで、すみませんが今更感があって、素材としてはなんだかです。
ほとんどなかったけど街中シーンでもっと群衆が動いたらいいのにとは思った。お金かかるからなあ。
これは個人的な好みなので先に書く。

冒頭、キリスト教会音楽に続いて、作品世界よりずっと後年のフォーククルセイダーズの「悲しくてやりきれない」をうたう能年玲奈、のんの声がかすれて流れる。この声が通奏低音のようにずっと頭に残る。
まずは主人公の声を演じる、能年玲奈が本当によかった。この人は方言ものがええんやろうか。

本編の抑えた感じの色のなかで、主人公すずが、はじめに同級生のために描く水彩の海があざやかに動き、彼女の絵は状況とともに線画のようになっていく、ついに右手は失われ、でも、失われた右手は、その後も画面の中で絵を描き続ける。丁寧な作画で、アニメ作家性のつよいものではなく、職人技に徹しています。アニメでしかできないことをアニメでちゃんとやっているのがよいです

原作が強い
でてくるのは「逝きし世の面影」にあらわれるような、枠組みの中に生きることをよしとするひとびと。流れに流されるわけではなく、そういう生き方なわけです。宮崎の「風立ちぬ」の主要登場人物たちの対極。
自覚的に、その生き方でいいのかと自分らも思ってるようで、夫が、かって想いあっていたかもしれないその同級生と一夜を過ごさせてやろうという余計なお世話までついてくる。
つまり、みんな、いい人なのですな。
その枠組みにいてもいいのかわからなくなったときに、枠組みに忠実な夫の言葉より、枠組みからちょっと逸脱する力のあるもとモガ小姑の言葉の方が重いのは仕方ない。

あくまでも、コミックのすぐれたアニメ化であって、とことんを追求したトップクオリティアニメではないけれど、いろんなものが補い合って、よい映画になった。ほんわかしているが、よかったと手放しにいうには、ちょっときつくてつらい。

終わり近く、孤児のシーンだけ違和感あった。
それまではすずの視点でゆっくり時間が経過していたのに、子供がいきなり原爆の下でわざとらしく右手に受傷したおそらく母親に死なれて、コマおとしで死体にハエがたかり、そこから、ころがした海苔巻き(?)に寄ってくる描写までは、時間のリズムが違いすぎる。
このシークエンスを入れたいのはわかります。原爆下というのが日本以外ではわかるかな。
場面としては原作どおりなんでしょうが、コミックは自分のペースで読めるがアニメは時間が一方的に流れる。リズムが違うのがそのままきてしまう
難しいですね、ここは。こういうコマ落としが、すずと関係のないところであと2か所くらいあったら馴染めたと思う。
孤児になった経緯はなしにして、弁当食うふたりのところに孤児がただ暗闇からでてくるのでもええようには思いました。
でもまあ、違和感がないからいいとは限らないし。

すべての登場人物がいとおしい。
悲しくてやりきれないので原作を読む気にならないw ネタがネタだけに聖地巡礼はせんやろなあ。
クラウドファンディングで最後に名前のでる快感を覚えた人が、これで増えたらいいと思います。

Star Trek Beyond 感想2016/10/23 23:51

いつも映画を集る娘がたまたま帰ってきておりますが、これは好みじゃないらしく、「早いな」の一言でするーされました。

で、ちょびっと感想。ネタばれします。

TOSの時間軸とは完全に切れてしまうようだし、続けるにしても仕切り直しでしょうかねえ。
作品自体は、お話のええ加減さはもう仕方ないとして、中国人スールーけっこう格好良かったのは中国市場への配慮か?アリババも制作に入ってる。

音を送り込んで相手がつぶれる、という戦法は「マーズアタック」でもつかわれたもので、そのもとはゴジラの「怪獣大戦争」ですね、知ってたんかどうか知りませんが。
「気休め言うな」というスポックにマッコイが「どうこうなったら死ぬぞ」とストレートに連発するシーンはちょっと笑いましたが、むしろマッコイには「He's dead, Jim」をどっかでやってほしかった。

旧スポックもしっかり死んだし、その遺品からでてくる、オリジナルのクルーの集合写真なんかはひとつの区切りとして使われてるんじゃないですかね。旧作の墓碑銘みたいなもんで、まあ決別するしかない設定ですが、シャトナーまだ生きてるけどもうええんかなw

役者が違うんでキャラも違ってきてるわけで、このへんで完全に違う世界にしてしまわないと、ちぐはぐさがもうどうしようもなさそうな。

再会の映画と、アニメ「君の名は。」2016/10/09 15:24

再会、というのは映画でも重要なモチーフです。

めまい」そっくりな女性と思ったら本人で、殺人の謎解きの挙句また失う。
雨月物語」死んだ妻に一夜だけ出会う。  田中絹代はもうこのときおばさんですが、再会からラストまではすごいです。
黒い瞳」一度は追った女性のもとに再びいけなかった男が、落魄してのち知り合った男。その妻が、どうやらその女性らしい、顔を合わせることになるであろう前に映画は終わる。
天井桟敷の人々」クラウンのパントマイム役者が、5年想い続けた女性と一夜だけ過ごす。謝肉祭の朝、追う男を、クラウン仮装の大騒ぎが阻む。

再会のモチーフをもちいた映画に一時はまっていた私を、再会映画ファンと呼んでくださいw

一度は愛し合った男女を、どう再会させるか、ストーリーを考える人たちは苦労してきたらしい。
昭和28年の「君の名は」については、再会なかなかしないのが見せ場と星新一が書いてたような。amazonではプライム無料ビデオじゃないのであらすじだけみると、再会した後それぞれの相手が入り乱れて gdgd なようでして、アニメとは主点が違う。あたりまえですが。

で、アニメ「君の名は。」見まして。ネタばれします

「時空を超えて入れ替わった二人が、歴史を変え、互いを忘れながらも、求めあい続け見かけたときに気づくというのがあらすじですな。
きれいというのか、無理やりというのか。

どこもここもどっかで見たような話とシーン、いろんなアニメをはじめとするもとネタをそこそこきれいにわかりやすく再構成してつくりあげたということかな。
最後10分は「それでどこで再会さすねん」てな感じで見ていた。

どうでもいいけど、入れ替わったときに胸をもむのは「転校生」を思わせる。田舎町で友人カップルがいて、というのはもうどのアニメとかいう問題ではない定番。山の奥のクレーター、「ハウル」っぽいね。日本の風土であれが草原沼地のまま木も生えないのはないやろうとは思いますが。

アニメーターがどんだけ死んだかわかりませんが絵はきれい(強調)だし、どのシークエンスも前後15分はわかりやすくつながってるし、テンポよく気持ちのいいシーンを出してくるし、ぼーっと見ている分にはなんら不都合ない。ドラマとして取り返しのつかないことはおこらず不愉快な場面もなく、アニメ画面上の日常そのものがノスタルジーにあふれている。
食いやすいおかゆとか、レンジ食品とか、日清のリッチヌードルフカヒレ味のような作品です。

このお話は、しかし隕石が落ちてくるシーンまで、非常に設定に苦労している。
入れ替わるという不思議現象は「むかしからその神社の女子子孫におこってきたこと」で、あっさり日常化させてしまった。最後の最後に市長が避難訓練の形で非難させたらしい(新聞でそう見える)のも、代々起こってきたことを最後に思い出したから、という設定なんでしょう、ばあちゃんに押し切られたか。ご神体の本体はたぶんクレーターの隕石でしょうが、その神社の神様が、この日のために巫女を介してやってきたことなんだ、で、説明終わり。そのクレーターのへりで時間を超えて会わせるために、かはたれどきについて繰り返し解説。

逆算型の設定にがんばりすぎて、かえって違和感がありまくるのがこの釈然としない気分のもとか。

で、ご都合設定に苦労しまくって隕石落としてふたりの記憶も記録も消したあと、再会に収束するまでが、それまでの無理に必然性を重ねた展開に比べあまりにもさらっとしすぎ、というか、雑
最後はもうくだくだいわず、気持ちよく流してくださいと、意図的にそうしたんだろうかね。老人になっておたがい孫に手をひかれて再会とかいうよくあるひねり方じゃないのはよかったんだろうけどそれにしても、そこだけ素直すぎる。

壊滅状態の地元からヒロインも友人カップルも東京に出てくる、というのはまあありえる。
ですが、人口も多く交通機関も入り組みまくりの東京で、ああいう、それぞれ特にそこにいるという必然性に欠けたあっさりタイプの再会はまずありえないと思うのですが、それが「奇跡の力」か?神様そこまでアフターケアいいのか
男は建築会社系にいったようだし、女の町に復興関係で出かけて、市長の娘として地元で頑張る女と再会、とか、にしたらよかったのに 。そこですれ違うけどわからない、でもいいけど、さらにありきたりかなあ。ま、「ボクの考えたストーリー」ですね、これじゃw

再会を売る映画としては再会のカタルシスがなさすぎる、と言わざるをえんか、いや、再会を売ってないんかな、再会部分はおまけに見える
再会映画ファンとしては不満だww
けっきょく再会しない「秒速5センチメートル」より、ましってことか、すみませんがあれはあまりに辛気臭くてコミック版途中でギブしました。監督自身も反省したらしい(伝聞)。

それもこれもまあ、私にとっては感情移入の邪魔になった部分ですが、気にならない人には気にならないだろう
監督が、そこそこ納得行く形で、やりたいようにやって、売れてるんだから、そこはなにもいうところではないです。あたりまえのことですが、一筆いれておく。

ここはさすがにご都合過ぎやなあとか思ったところ。だからっていけないとは思いません、念のため。
スマホの日記は消えるのに絵や記憶はしばらくそこそこ健在。
過去の東京に出かけてお前なにとかいいつつ組紐のやりとりして、しかもそれを手首にずっとしてるのにそれが山の夕暮れシーンまで思い出されない。
前に隕石が落ちてきたんだしまた落ちるかも、って、火山じゃなし、隕石に関しては前におちてこようが、そこにまた落ちる確率は上がらんやろう。
神社から最低1キロぐらいはみんな離れてほしいもんですが、そんな時間があるようにも思えない。
口噛み酒、あの環境でカビも生えずにできるのか。

庵野氏のゴジラを見たときに私の思ったこと2016/08/05 00:00

シン・ゴジラ」by 庵野秀明総監督  みました。雑感です。
軽いですがオタ方面の知識を前提にしています。ネタばれもありますので注意。

そんなに指図されることもなくたぶん好きなようにつくれるようになったおかげでしょうが、出来上がったもののイストは、自主製作時代のダイコン「帰ってきたウルトラマン」に最も近いです。「ねつかくこうげき」と連呼するからとは言いませんがw

地面ずるずるはい回る幼生形態は「八岐大蛇の逆襲」かと思った。ミニラじゃないのねw
アニパロにシフトした「トップ」や「ナディア」よりも、「エヴァ」は特撮の血が濃いんやなということもこれみたらわかります。ヤシマ作戦まんまという突込みがありますが、これはむしろ意図的にやっているでしょう。
ゴジラ無双のとこは「巨神兵東京にあらわる」みたいやし。
おたキング岡田ライクのでぶがうろうろするのはわざとか。
この監督、けっきょくずっとおなじことやってはんのやろなと思いました。

特撮ファンとしてはとてもうれしい代物ですしとても正しくつくられています。最上級の、自主制作系特撮映画です。ひたすら東京をめざすCG怪獣と、それを日本国が相手するに要する各種手続きの説明をシミュレーション式に物語化した、つまり日本の制度の取り扱いマニュアルみたいな映画なので、まともなドラマはないに等しく、映画としては非常に偏った代物と思う、てか、メジャー上映でこれをやってのけたのがお手柄なのか。

つまり、オタのお祭りにあわせて上映されたような自主製作映画とかわらんのですよ、白組の特殊技術レベルが高い一方、人間側のお話部分はやや一本調子で、それほどの葛藤もなければ、視点の移動も少なく、危機管理物語というか、ひたすら特撮でつくりだす状況の正当化してるだけです。ゴジラやウルトラマン見て育った人たちがとびあがってうれしがるのはあたりまえといえばあたりまえ。いまどきの子らには、、、どうなんやろw
特に、踏みつぶされる側の人々の具体的な生活史像はまったくといっていいほど出てこない。こけるマンションの中を映せばいいってもんでもない。
主演級の若手の演技もちょっとだから、へんなドラマつくるよりは正解なのかもしれないですけどね、超古代文明とかいまさら勘弁なんで。
それもこれも、しかし、できんことはやらんという割り切りはご立派、たいがい、できもしないわかってもいない「ウケる」要素を入れようとしてこける。
金かけて好き勝手できてええなあと思います。これは、わかりにくいかもしれんけど絶賛してます。

庵野氏は、プログラムドピクチャーで、以前の作品を引用しながら無理やりに感動させるのはずいぶんうまい人であることを、ひさしぶりに感じてうれしくなったファンも多いのではないでしょうか。トップもナディアも最後がとにかくうまかった。
いろいろなもんからの引用が多く、何を見てもなにかを思い出すよねえ、、、一番ビジュアルではまったのは、幼生形態の目玉でした、そのつもりもないかもしれんけど吾妻ひでおのどろろん忍者かいとw ゴジラ自己進化設定も樋口監督自身の平成ギャオスやし。
完全オリジナルのエヴァの最終作品も、この勢いでいちおう作る気になってられるようです。私の理解では、Qはナディアでいう「島編」です。だからって最後までたどり着けるかはわかりませんけどねw
旧劇場版でなにがあかんかったんやろうとは思います。余裕ぶっこいてむかしの若書きに手を入れ始めたら収拾つかんようになったんやろうと勝手に思ってるんですが。

作品に戻ります。
日本でこういうのやると、84年「ゴジラ」じゃないが、すぐに官邸群像劇になるのはなんだかですねえ。自衛隊の出動の事情をやろうとしてリアリティを追及するとそうなるということでしょうか、核兵器とか国際関係がどうのとか。「日本沈没」てのもあるし、これもまあ引用と言えば引用か。
いちいち誰か似の防衛大臣が「首相」と叫ぶ、自衛隊を動かす政治についての、図式的でわかりやすいコメディの挙句に主要閣僚みなぶっ殺したのは笑ったが。一緒に乗ったらあかんやろう。

下命をうけ、はずれもんでチームをつくって起死回生の一発、という、なんかのような快楽設定ですが、みるからにわざとらしくスクールカーストw下位で痛々しいのはなんとかならんかったんやろか、これで感情移入できるのは世界的にはかなりのマイノリティと思う、まあ、ちょっと近親憎悪なんかもしれません。それにしても、下っ端とかオタとかに甘すぎる設定。上から下までお笑いで通せばいいのに、バランスが悪い。志ある官僚が彼らをひきいて、日本が救われるというのもファンタジーですが笑いにくいなあ。

これだけなら、ゴジラという異物を放り込まれた日本政府の仮想ドキュメンタリーのカリカチュアということでも行けたと思うんですけどね。日本人による日本論は、日本でしかうけんやろうけどまあいいとして。
後半特に、この国は大丈夫のどうのと、変な日本age がでてきます。ひねりがそっちにいってしまった。
庵野氏の時代のダイコンがかかわった「愛国戦隊大日本」から、「神風ライダー」に至る(「国防挺身隊」を入れてもいいw)特撮系右翼パロ自主製作映画と実は同様、そのほうが単に話をわかりやすくオモシロく作りやすいからそうした、と私は思うのです。日本の組織の取説にちょっと情念をまぶしてみるわけです。メジャーですと「平成ガメラ‐イリス編」のラストの悲壮感がそうですね、物語つくりとしてはむしろ逃げなのですが、変な酔い方して、ニッポンえらいとビビッドに反応する人もいるんだろうな、とも思いますあーあ。

正直言うとちょっと暴れ足らんですけどねえ。関東平野がでかすぎ。

エキストラ相当のところにびみょーな有名人名がいっぱいあってまた笑った、塚本晋也とか。さぞかしみんな楽しかったことでしょう。

ゴジラのしっぽのアップが、なんかいろんなものとか人間とかがよせあつまってできたような描写になってたような。分裂増殖らしい。今後なんかに使うのかしら?

以下、設定についての疑問。

1) 米軍の攻撃で、スリープ、チャージせんとあかんほどのダメージをこうむるわけですよねえ、だったらなんで、無人機でその攻撃を続けんのかなと思いました。効果のあった攻撃はとどめさすまで続ければいいんで、それを中断して核攻撃というのがわからない。最終攻撃でまたその攻撃して動きをおそくするんだから、できるんでしょ。

2) 頓智兵器で退治するところは伝統にのっとってすごくいのですが、あれ服ませてるというか内服させてるんですか?それじゃまともに吸収されんのじゃないか。口腔内粘膜下注射としても、凝固促進剤が全身に回るんだろうかと、よその科のこととはいえ思いました。あのやりかたではきっちり血管に入らんだろうし、皮下注レベルではそこに血腫つくっておわりなんやないかいな。まあ、ききとれんことをぐたぐたゆうてたから、クリアされてるんかもしれんけど。ケツにぶちこめといってる人もいるようでそのほうがまだ全身に回るだろう。

3) さらに余分ですが、血液の冷却効果がおちたときに冷却力あげてぜんぶ凍るような反応をするように、生物(そんな生物おらんけど)はできてないし、ふつうは熱暴走のほうを予測せんかな

全体に滑舌がわるくてききとりにくいが、これはもう日本映画は20年前からですし、そんな大したことはたぶんいってない。環境省子の最後の台詞もわからんかった。聞き取りが悪くて理解が違うところがあったらすみません(言い訳

それにしても、伊福部サウンドはええなあ:結論

コンデジ買いに行って2016/07/25 01:18

フィルムカメラの時代の末期、 Pentax の、 MZ-Lに、SMC-Pentax-M20mmF4 つけて、ほとんどノーファインダーで撮りまくるのが好きでした。超広角は好きなのです。
ダイヤル多用の MZ-3  も、もってましたが、基本思想が上位機種 MZ-S とおなじ MZ-L のほうが自動機としてわりきってつかえたのですな。20mmは、被写界深度も深くててきとーに目測ピントあわせでも困ることなかったし、内蔵ストロボ使ってもレンズケラレもなく、光が周辺でおちるのもそんなに不自然ではなかった。

デジの時代になって、はじめ、レスポンスの速さで、Fuji のスマメの入る縦長の Finepix 4800Z を買った。ポルシェデザインの FinePix 6800Zもそのつながりで買ったが、スマメの時代はあっというまに過ぎた。
そのあと、防水がいいやと Pentax 43WR 潜水も出来る Pentax W20 超広角の24mm相当があらわれて Ricoh GX100 をつかい、24mm相当からのズームでF2の明るいものがでてきたので喜んで Panasonic LX3 を買った。毎日持ち歩くものでいたみが早く、Pananonic LX5 に途中、買い換えた。画素数はほぼ 1000万。
こいつらで、特に旅行中は、なんでも記録するために歩きながら撮りまくる。きれいな景色は Sigma DP-1、SLR つかいたいときは Pentax K10D 、レンジファインダーとして Leica M8 をモノクロモードにしてレンズは Hexanon 21-35 Dual と Ricoh GR 28mmF2.8 でして、このあたりのカメラ生活がけっこう仕合せだったような気がします
。2008年から2014年のころ。

ところが、このあと Panasonic は LX7 として F1.4 という明るいレンズのついた、ちょっとでかい路線にシフトしてしまった。
そこで、買い替えとして、明るい超広角ズームに防水の Olympus TG-1 買ってみたけど、形のせいか私はこれで水平がなかなかだせなかった。

フジの受光素子は使ってみたかったんで、25mm相当からの4倍ズーム、広角側開放F1.8の Fuji XQ-1 にした。画素数 1200万。結構気に入ってつかっているわけです。

家内はもともと Canon の、ちょっと大きめ、ズーム比の高いものをもってましたが、暗いところがきれいにとれないといって、開放F値の明るいレンズでやはりいろいろ比べ、広角側は 24mm 相当でいちばん望遠域の長い Nikon P340 におちついた。

最近、家内のカメラが、電源ボタンの反応が悪いという。
Nikon の梅田サービスセンターに持ち込んでみてもらうことにして、その合間に大阪駅北のヨドでまたいろいろくらべてみようと、出かけたわけです。

まあ、状況は、そのまえに京都のヨドにも行き、ネットで検索もしましたのでわかりきってはいたのですが、、、

小型コンパクトデジカメで、F2より明るくて24ミリ相当からのズームのものは、どんどん種類が減っています
Sony と Canon しかありません。ともに大サイズ受光素子で2000万画素。
絶滅危惧とはいわんけど、スマホのカメラがどんどんよくなって、コンデジはパイが小さくなって、似たようなもんをみんなが出してみんなが食える状況じゃなくなってきたのですかね。
Fuji と Nikon はディスコン、 Olympus はアウトドア用のままで、Panasonic は何考えたか、レンズはF.17とちょっと暗く戻したのに4/3受光素子つけて、更に本体が大きい。 

でかい受光素子で、ものによると画素数も2000万だと、さぞ画質はいい、んでしょうけど、たかだか20インチ台のモニターや、A3もしくは4つ切り程度のプリントアウトじゃ、ぱっと見そんなにかわりゃせんのです。

家内についていうと、 Sony も Canon も望遠が弱いし Sony は動画ボタンの位置が駄目 Canon はタッチパネルが嫌なんですと。
Nikon に持ち込んだカメラは、製品としての問題はないと返されてきましたが、あとどれくらい持つか不安で、これが駄目になったときに選択肢がないのは困るという。

私も、Fuji XQ-1の背面液晶がちょっと焼けたところがあり、まだ使えるけどそろそろ次を考えておこうと。Sony RX100III でもまーいいんですが、望遠側が70mm相当までしかないし、タイマーもコワイw

けっきょく、家内に関しては、今もってるニコンの P340 市中在庫をネット通販手配。
ついでに私も、いまもってるフジの XQ1 の後継の XQ2 市中在庫を手配した。

2000万画素の大型受光素子でコンパクトにカメラ全体を仕上げられるメーカーが、 Sony Canon の2つにしぼられたということなんでしょうかね。

Fuji もちょっと大き目の自社製受光素子ではありますがICチップは他社らしい。この会社、 レトロな感じのものをどんどん出してるんですが売れてるんやろかね、ファインダー覗かせるのが好きですが、あの面倒な姿勢から開放してくれたのがデジだと私は思ってるんですが。
Nikon はサンヨー製だったというから本当ならなくなってもしかたないか。熊本の地震で Nikon は受光素子の工場がやられてあちこち大変らしい。

なににしても、選択肢がなくなっていくのはさびしいものです。

AVによる被害と法律2016/03/09 16:27

AV出演を強いられた女性の被害について訴える動きがあった。

まるで奴隷。 アダルトビデオ強要被害で苦しんでいる 若い女性や少女たちを救うために 必要な法整備を一刻も早く実現してください。 国際人権NGOヒューマンライツ・ナウ
「法律には以下の内容を盛り込んでください。
1. 監督官庁の設置
2. 不当・違法な勧誘の禁止
3. 違約金を定めることの禁止
4. 意に反して出演させることの禁止
5. 女性を指揮監督下において、メーカーでの撮影に派遣する行為は違法であることを確認する。
6. 禁止事項に違反する場合の刑事罰。
7. 契約の解除をいつでも認めること
8. 意に反する出演にかかるビデオの販売差し止め
9. 悪質な事業者の企業名公表、指示、命令、業務停止などの措置
10. 相談および被害救済窓口の設置」

表現の自由があるのでややこしくはなるが、自己の身体に関する決定権にかかわるという点で、いわゆる「本番風俗」に通底する事項と思う。

AV産業を含む性産業をドイツ並みにセックスまで含めてきっちり合法化してしっかり労務管理する、しか解決策はないと思いますけどねえ、現状では、中途半端な禁酒法のままアルコールの裏取引を法的になんとかしろというようなもんですから。

重罰化をさけぶ向きもあるようなのですが、強要はいまだって犯罪ですし、刑は重くしてもはじめから覚悟の上だったり身代わり用意してたりで効果は薄いと思うのですよ。
そんなことしなくてもモデルがふつうに働ける状況にして、犯罪的にモデルを使うことが割に合わないようにするのが重要と思います。
加害者は、つかまらないつもりでやるからです。刑法をどういじくっても殺人がなくならないのといっしょです。

ここに、「ばれてもええんか」という「脅し」の部分が入ってくるのが、性犯罪の問題なのですが、、、
いちばん問題なのは「被害者を叩く」文化と思うのです。
性犯罪の被害が、本人の落ち度のようになるので、こういう被害はなくならない。
性被害なんて、道具のように使われたという時点でプライドずたずたになるのに、そのうえ「世間」が叩きにくるんだから悪夢ですわな。

「なにかあるのは本人の問題があるからだ」と無前提に考える文化が日本にもベースにあるので、これと共通して、たとえばISの被害者についての自己責任論とかでてくるのですよね。

性的な被害は被害者にとって風評が2重被害をもたらすのですが、それを恐れるからさらに付け込まれるわけです。
風評被害を過大視する形で厳罰化したって、つまりは風評被害自体を肯定しているわけですから、むしろ将来の加害者を利するばかりです。

犯罪自体については、身体的な自己決定権を侵害されたのが問題と過不足なく認識して戦い、社会が被害を助長させない形でバックアップする、これを気長につづけていく、しかないように思うのですがねえ。まあ、難しいですが。

まず「人格を無視して、自分の体を道具として扱われた」ことについて問答無用に怒るべきです。
レディガガの「被害者は悪くない」というのはそういうことで、性犯罪がその代表になっていますがもっと広い範囲の犯罪として考えるべきです。そのなかで性犯罪の被害がことさらに自殺に追い込まれる文化的な背景をも制度からなんとかしないとあかんのではないですかね

しつこいですが、被害にあうのが「はずかしいこと」というセンスがある限り、性犯罪という犯罪構造は続くんじゃないですかね。

加えてですが、、犯罪を裁く方向で防止をはかったところで被害者は被害にあった後なのでして、むしろ被害者をどう回復させるかが重要なんじゃ。「あいつらは裁かれたからいいよね」ではないはず。
刑罰は復讐、代償、矯正、隔離といった側面がありいろいろごっちゃになりますが、心情的なものをベースにした厳罰化論議は復讐の側面が強くこれをもって犯罪前の防止や被害者救済にはつながりにくいように思います。復讐も大切ですけどね。

で、きっちり双方合意の上でつくられた成人表現を含む映像作品を、その後の女優側の一方的な主張で犯罪の物証とされるリスクはどうなるんだろうなあとも思いますがねえ。

なんでこの問題が最近はじまったわけでもないのにいきなりクローズアップされたのか知りませんが、注目されたならなおさら小手先で済ませてほしくないものなのですが、「AVがあるからいけない」的な方向に流れていくのがもうなんともで。

<AV出演強要>「奴隷のような状況」「刑事罰が必要」NPOが深刻な被害訴える
弁護士ドットコム 3月3日(木)17時30分配信
「「ポルノ被害と性暴力を考える会」世話人の宮本節子氏は「これだけ多くの被害者が生まれるのは、(アダルトビデオの)需要があるからだ。日本社会には、需要を喚起することにアクセルはあるが、ブレーキは一切ない。この需要についても、社会問題としていかなければならない」と話していた。

それはちょっと違うやろうw
エロそのものは人間の営為の一部です。

繰り返すが、いまどき本番なしのAVはまずありえないので、本番産業ふくめて明確なラインで合法化したほうが就業女性の保護につながると思うんですがねえ。
新規参入が法的に容易になるし、線引きが明確になると恣意的に運用しにくくなるので警察嫌がるでしょうが。

ここで、AV製作サイドの認可制度とかいうのはやめてほしい。
認可とかいうとへんなしばりをかけはじめてけっきょくそっから外れたもんがあれこれアングラではじめるし、AVについていうと表現の自由にかかわります。
まずは本番産業を性奴隷にならないように(合法的ブラック企業並みならよしとするかw)合法的にきっちり成立させてあとはその枠で好きにさせるしかないと思います。

追悼原節子 そして「麦秋」について2015/11/26 19:57

原節子(敬称略)がなくなりました。さいごのほうにでられた映画じゃないが、天の岩戸から出てこなかった感じです。

ビデオで映画を見るというのが80年代後半広がるまでは、映画は映画館でしかみられないもので、テレビでもやるにしても映画館で見るのとは別物で、古いもの、珍しいもの、は、わざわざやってるところをみつけたら都合付けて見に行くもんだった。
小津はビッグネームであるから、ちょこちょこ特集されていた。千日前松竹にオールナイトで4-5作いっぺんにみたことがある。どれもこれも、似たような筋やなあというのがそのころの感想。

当時のマイクに声をひろわせるためにか、喋り方もとにかくはきはき滑舌がよく、怒鳴るだけでなにいってるかわからないいまどきの映画とは別物である。
大学のころの、私の持ちネタは、小津作品での、笠置衆や、原節子の、しゃべりマネであった。
RIP

原節子は、いろいろ映画はあるにしても、小津のいわゆる「春3部作」によって世界の映画史に残ったといえる。「晩春」「麦秋」「東京物語」ですね。
この3部作で、原節子のカウンターパートとなった笠置衆は、キャリアのはじめから老け役だったと揶揄されることが多い。原節子とは親子の世代をやったりするイメージで、この3部作でも、「晩春」では実父、「東京物語」では亡夫の父、というのはそのままですが、「麦秋」においてだけは、兄妹になっている。この2人の関係が映画の軸になっていると考えねば、「麦秋」のみで笠置衆が兄役をやった説明が出来ない。

そこからいろいろ考えて、むかし、「麦秋」についてこんな文を書いた。かなり前です。紋切りな表現がいっぱいあって恥ずかしいねえw
おもえばちょっとメンヘルっぽい女性と知り合う機会があって、こんなことを考えてしまったというところ。ピントはずれというなら許してください。似たようなことをいってる人がいたらごめん。
オリジナルサイトを明示しない引用は禁じますww

ネタばれしますが、そもそも、「麦秋」みた方じゃないとこれわかりませんからね、あらかじめお断りしておきます。「麦秋」は、見る価値ありますよ。デジタル修復されるんでしょうね、これも。


「麦秋」論 ~架空の家族考証

小津安二郎の映画「麦秋」に関しては従来より、大家族制の崩壊と核家族への移行をテーマにしたものとされてきた。
確かにそれは正しいであろう。というよりは、起こっていることは正確にそれらのテーマをなぞっている。
にもかかわらず、原節子の演じる紀子のありようの異様さはどうであろう。この映画において、家族の離散は決して社会情勢等から不可避に導き出されるものではない。あくまでも紀子一人の異様な行動から引き起こされるのである。
みんな、原節子の美しさに騙されて気がつかないだけなのだ。

よく見てみれば回答はすべて映画の中にある。
まず専務。彼女の上司であるこの恐ろしく口の、そして多分性格も悪い専務の事を、紀子はどう思っているのか。この専務は、仕事ができる、若い、格好がいい、男っぽい、と、映画のある種のヒーローたるべき条件をあざといまでに全て備えて登場する。紀子の友人の母の料亭で、専務が居ることを知ったときの紀子のはしゃぎ方は、只の部下の反応とは思えない。にもかかわらず専務の眼の前での見せつけるような事務的な態度と優秀さは、紀子が心中、既婚者である(このことは終わり近くで明らかにされるがもちろん登場人物は知っているはずだ)この専務に恋しているとは言えないまでも、慕っている事を確信させる。兄に対する生意気さと裏腹に、彼女は専務にはあくまでも従順である。そして自分の地位に安住している。
だからこそ縁談を専務が持ってくること自体に彼女はショックを受けるのだ。

一方で彼女に戦死したであろう兄が居たことを我々はやがて知る。この亡兄に対するありようも異様である。亡兄からの、自分のところにきたわけでもない手紙を欲しがるという行為も逸脱しているし、その手紙をくれようという亡兄の友人でやはり戦争帰りの男(つまり出来の悪いコピー)と、その後ころころと結婚に転がり込んで行くことを思うと、公式的には戦死の確認されていない亡兄に恋に近い気持ちをもっていたことは明らかで、今も持ち続けている、というより、中途半端な状態ではその気持ちが正常な形に修正されようがないのある。

こういう精神構造の持ち主に「恋愛」が出来るだろうか。不可能だ。
だから健吉は格好よくあってはいけないのである。
健吉の描かれ方の悲惨さはどうだろう。紀子の家族からはついに健吉を「立てる」声はきかれない。紀子の結婚が家族離散の契機にになるとはいえ健吉が相手で無くとも起こり得ることではあるし、大家族をそのまま維持できる相手を見つける方が難しいかも知れない。にもかかわらず、最後の夕食に至るまで紀子の家族の健吉に対する無視は徹底している。彼はあくまでもあまり有能とは言えない医者、人のよい小市民である。ヒロインの恋の相手ではない。
だがそれをいちばん自覚しているのは健吉自身である。彼は紀子との結婚を考えたこともないし秋田に行くのも「自分にはいい口だ」と納得してしまっている。二・三年で東京に戻れると、本人を含む誰も信じてはいまい。
母から、紀子が結婚してくれると聞いたとき、彼は戸惑い、状況の異様さを直感して逃げたい程だったのではないか。ここで彼の、狂言回しとしての物語は終わるのだ。そしてこの後映画に登場することはない。

健吉の上司でもある紀子のもう一人の兄周吉(笠置衆)は、最初から、大家族の主宰者であり紀子と対立する存在として登場する。「エチケット」に関する紀子と兄の徹底した反目をみれば、紀子の心中でこの兄が敵に近いとらえ方をされていることがわかる。医者・家長であった故に出征せずに済み、鎌倉住いであったため結果的に焼け出されることもなく、「戦前」をおそらく半ば肯定的に感じているであろう兄に、その戦争で愛するもう一人の兄を見失なった紀子が感情移入できるわけが無いのである。老父母をいだいて兄中心に大家族制の威信が面目上維持されてきた家族の中で、紀子は完全な異分子である。ところがその異分子にこの大家族はその豊かさを半ば負っているわけで(というかそのためだけに存在が認められているのだが)、しかも紀子の実質的な重要性にも拘らず、例えば父母にとって、幸せだ幸せだと言いながら風船を見て思い出すのはあくまでも兄の幼い頃である。

だから、この結婚に周囲が反対すればするほど彼女は突っ張るのである。
無理矢理兄が潰そうとすれば潰れたに違いない。しかし、兄がそういう事をする性格の持ち主でないことは紀子自身が既に「そういうひとよ」と宣言してしまっている。更に、専務のもってきた縁談に対する応対からして兄自身反対する口実が無い。その上、老父母を大和へ追い返しさえすれば経済的な問題も何とかなってしまう(彼の口ぶりは、追い返さなければならない立場を嫌がっているだけで、追い返すこと自体に抵抗があるとは思えない)。下らない男を相手に無断で、つまり、面子を潰された、のが唯一の問題になる。

老父母は紀子とその兄に養われている被庇護者である。三世代同居の一見大家族制に似た状況だが実は、老父母はもともと戦争前後の一時的な避難として紀子を連れて息子の家に転がり込んだ居候であり、かってはなんらかの収入もあったろうが(未だ売文はしているらしい)今となっては、紀子の存在のみにその正当性を得ているだけの、いつかは帰るべき存在なのだ。大和のおじいちゃんというのはその預言の為やってきたのである。だからこの結婚を聞かされたときの母のやつれかた(時間として数分の事であり場所も同じであるにも拘らずライティングの変化ですごい影が顔に出来る)や、踏切の前に座り込む父の姿は、決定的な通告を受けたときの絶望した人間の姿を描いてすさまじい。

しかしそうしてまで結婚する相手の家庭では、より貧困であろうが、「大家族制の崩壊」などは起こり得ない。健吉は、例えば母との別居など考えもしまい。彼の生活は戦前の小津による「長屋物」におけるそれに近い。紀子の家庭と対照的であって、高価なおもちゃやショートケーキをあっさり買い入れる紀子の家庭に上がり込み、そのショートケーキの追加を臆面もなく欲しがる健吉は笑いを誘う。だが、謙吉はそんな風な貧乏生活も、母と別居してまで改善しようとはしまい。また、彼の母もそれを受け入れはしないだろう。逆に、紀子の家庭で、紀子の去った後老父母を大和に帰さなければ生活がどうにも成り立たないとは思えない。老父母が紀子とともにやってきたとき紀子はほんの女学生と語られており、少なくとも彼女のかせぐような収入はなかったはずで、しかも終戦前後である。そのころに比べ生活は格段に-少なくとももんぺをはかなくてもいいほどに-楽になっており、そこへ、兄の子を差し引くと就学前の子供が一人増えているに過ぎない。

紀子が、悲惨な状態に飛び込んでみせることで自らの属していた「大家族」の嘘を暴き、崩壊させる。これは、身を呈した復讐でなくて何であるか。その時健吉を選んだのは、健吉が、紀子にとって最も結婚を、男を感じさせない人間であったからに他ならない。健吉の家族に対し、紀子は嫁、もしくは義母として侵入する。だが、妻になるという認識は出来ただろうか。実際最後の最後まで、紀子は、自分が結婚するとは思ってはいなかったのではないか。

その後の紀子の行き方は、だから、周囲を傷つけた事に対する正当化に終始する。また周囲もそれを手伝うことになる。お互いに自分を納得させたいのである。
まず砂浜での兄嫁との会話。小津にしては珍しくクレーンを用いたことで有名なこのシーンはしかし極めて薄気味悪い。一体このシーンに通してみられる会話の不自然さ、胡散臭さをどう考えればよいか。自分の結婚を後付けの理屈で正当化しようとする紀子と、それを額面通り受け入れて名目だけでも大家族、もっと言えば兄の威信を維持しようとする兄嫁との八百長的戦いと考えるしかないではないか。そのうえ、今後の紀子の生活の「いろんなこと」の不安を兄嫁は只強調するだけである。兄夫婦とその子達の金銭に関する敏感さはもっと注目されるべきだ。紀子は「なんとかなる」「そんなに苦にならない」つまり、経済的負担はかけない、と繰り返さざるを得ない。思えば、家族と紀子のつながりはこれだけだったのか。兄嫁の「安心した」という台詞で、紀子は切り離されるのである。

友人である料亭の娘との会話にも紀子が自分を納得させようとする有様はみられる。健吉の何処がいいのか答えられないのは、単に、何処がいいとも思っていないだけの話だ。「惚れてるのよ」と解釈したい友人に、しかし紀子は諾かない。男として認識できない相手に惚れようが無いからである。こうしてこの病的に不幸な娘は、自分の属したかも知れない社会を、家庭の主宰者を、最後にこの友人に手を引かれて無理矢理垣間見させられることになる。そのとき後悔はなかったか。しかも、その独身の友人は、紀子の結婚することの無かった「条件の良い」相手に会ってみたかったのだと思えば、この展開も無惨である。

さらに、それより前、紀子が専務に挨拶に行ったとき、専務は、「俺ならどうだい、もっと若くて、独身なら」と、たとえ冗談としてでも言っているのだ。この時紀子の顔はうつしだされない。しかし、だからこそ見ているものは、おそらく全く変わらない彼女の笑顔と、醜く歪む彼女の心をたやすく想像できる。もしこの台詞が最初にきていたら、紀子はきっと専務の見合いにのって結婚してしまっていたであろう。

かくして最後の別れの夕食に映画は突入する。既に決着はついている。紀子の反抗は周囲の対応で完全に無力化された。確かに家族は離散する。老父母が紀子と同時に切り捨てられるわけで、実質的には、三人のくる前の状態に戻るだけだ。しかし紀子の憎んだ、老父母を背景にした兄の威信は、名目上は、完全に維持され、そのままひそかに人々は兄とその子供を中心とした新秩序に移行する(子供達の傍若無人なこと!)。であれば、紀子の反抗は何だったのか。

この時の兄の「紀子もこの家にきたときはまだお人形のようで」という台詞は象徴的だ。
家族は紀子を畢竟一個の人格として認めてはいなかったのではないのか。この物語で、紀子は、それまできれいな服を着せられていた人形がぼろぼろの服を自ら選んで自立心をしめしたような顔をする、という描かれ方をしているのだ。
この時すでに誰も彼女を取りなそうとしない。彼女はあらゆる空間からはじき出されたのだ。どこかでたかをくくっていた、もしくは状況をなめていた紀子は、最後の最後には、老親に詫びを入れつつ、自分の人生に絶望して泣くしかないのである。

大和へ都落ちした老父母の心中は、だから、いつのまにか育ててしまっていた化物-紀子に限らず、兄もそうである-を情けなく思うということにつきるであろう。しかし、自分達が育ててしまった以上彼らには何も言えない。もともとはありえなかったものを味わえたと思い「幸せでした」と呟いて満足するしかない。

 小津の作品の多くは、「破綻した家族関係」を描いている。この物語においても紀子と家庭の根本的に抱えていた破綻があるきっかけで顕然化する訳であり、その後の彼女の結婚生活のなにがしかの破綻もたやすく想像できるであろう。

ここまでくれば、「病的人格を持つ娘が自分を育てた病的な環境に対し、自分を貶めることで異議申し立てをするが、裕福な者の肉親に対するエゴイズムの前で敗北する」という構図が見えて来る。紀子という、ありきたりだが病的な娘は(つまり・・・病的だが、珍しくもあるまい!)、原節子だから演じきれたといってよい。かつ「麦秋」の描写の厚みは、「婚期を逃した娘をめぐる麗しい家族の愛」としてでも「大家族の崩壊にまつわる家族の葛藤」としてでも充分この映画を楽しませてくれる。小津の一つの頂点である。

この映画に比べればたとえば「秋刀魚の味」は、よほど人間肯定的な作品である。むろん楽しめるとは言え、「麦秋」のような底知れぬ恐ろしさ、冷酷さはない。だから遺作になったのか、「これが遺作ではちと寂しい。」のかは、神ならぬ我々には知る由もない。
「秋刀魚の味」に、「麦秋」のシーンのもじりがある。娘が心中憧れている男と一緒に電車を待つシーンで、結局この二人は、お互いに引き合うものを感じながらも結ばれることはない。「麦秋」の冒頭で互いに何も思わない、思いようの無い紀子と健吉がやはり(というよりは紀子は健吉の、俗さ加減を、途中から明らかに揶揄している)電車を待つシーンの事を考えると、はるかにかわいく、どこにでもありそうで、心に残るではないか。

 「麦秋」は、おそるべき映画である。 

著作権:稲亀石とその本人


というわけで、「麦秋」でも笠置衆が父親をやったと書いてる WSJ 、いったいなにみとるんや。
In Ozu’s “Early Summer” (1951), she again plays opposite Ryu as her father, this time boldly selecting a widowed neighbor as her husband despite her family’s objections. 

ペンタフルサイズデジの観測気球?w2015/05/26 08:44

ペンタックス35ミリフルサイズデジSLR11月に出るんじゃとか、フォーカスが画期的とか。
内蔵ストロボなくなる観測は、日中シンクロになんとなく使う私には残念かな。

ペンタックスオーストラリアが公式フェイスブックで、同社のフルサイズ一眼レフカメラについて "11月近く" に更なるアップデート・発表があるだろうと述べている(私は、これは11月の発売を意図していると推測している)

ボーナス前に情報を流してよそのカメラに移るのを邪魔してるんだろうという知人もいましたが、ペンタがいまさらそれやる意味は、どう考えてもないなあ。

内蔵フラッシュ云々については以下にある。

「今年秋に発表になる予定のKマウントフルサイズ判デジタル一眼レフカメラは、漏れ聞く情報によると(不確実だが)、内蔵フラッシュは搭載しないらしい。」「そのフルサイズ判カメラについての詳しい話はいまは控えておくけど、ひょっとすると画期的なAF機能が搭載されるかもしれない…。春のCP+で開発責任者の北沢さんが「世界初の機能をいくつか搭載予定」と言っていたものの1つがそれかもしれない」

どんな画期的なAFなんだか。サブミラーを排してAFの範囲を大きく、という噂ですが(本当かは不明)、それにしても合焦プロトコールだのサーボだのがついていかなきゃ意味ないんですし。

GPSはいまどきあったほうがいいというのはわかるが、それを内蔵させるために内蔵ストロボいれないなら、優先順位がおかしい
ひとによる差のおおきい機能は、アタッチメントにするか、スマホなんかと連携させて外からサポする時代じゃないの?
内蔵ストロボはレンズケラレおこしやすい、特に私の好きな超広角だと余計そうなのですが、そこそこ重宝なのは間違いない。

ライカなんかは内蔵ストロボはないぞという突っ込みもありましたがそういう問題じゃないw 製品コンセプトが違いすぎる。
レンジファインダのライカは、どれも基本手持ちの、長時間露光です。
そのために異様に明るいレンズも出ましたが、その狭い被写界深度を焦点移動のわからないレンジファインダであわせられるの?というのが心意気ですなあ。
そういう心意気は私はペンタには求めてないので。

つけてやりたいレンズは持ってるんで、気が向いたら買う。頑張ってねー(投げやり