手術はどこまでできたらいいのか2011/10/08 10:58

大学のような偏った場所ならともかく、市中の普通の病院、それも、そのあたりにはまともに入院手術できるところがほかにないというところになると、そこそこの手術は自分でできたほうがいい。

分野によっては、特化していて、それなりの資本注入もいるし、症例も少なかったり近所じゃなくても専門病院もあったりで、あえて手を出さないという行きかたもある。
私の感覚では
「小児や新生児の手術」
はそうだ。いちいち全身管理が術後も大変だし、道具も特殊なものが必要、加えて専門病院には経験値をあげてもらわねばならない。
未熟児網膜症2型の硝子体手術なんて絶対にしない。お願いして送らせてもらうのだが、先方が、周辺のレーザーだけさせられるのが嫌なのかもしれないがなかなか信用してくれないこともある。そういうときには Retcam が欲しくなる。見れば一発だからね。レーザー後の剥離のときに輪状締結だけは専門家に言われて全麻でやったことあるが、するべきだったかいまだに迷う。
斜視ならしなくもない。あとあとの視能訓練も考えると遠方はかわいそうだしね。

「角膜移植」
も、通常の全層移植はしますが、フェムトセカンドレーザーかませたり、分層移植とくに DSAEK で内皮だけ移したり、ということになるともう無理。輸入角膜も扱わないし。

なかなかその気にならなくて、というのが「涙道手術」で、私はDCRについては、鼻内法はできません。それ用の内視鏡を買いそびれて結局やらなかった。骨は削れるが、これもがんがんするのがかわいそうなので、ちょっと離れた専門の先生に、鼻内法でどうでしょうと送って、そのまま先方で骨削ることになったということが多い。

逆に言うと、それ以外だったらそこそこできるようにしてきた。古い技術をあえて使うようにもしている。きつい白内障だと無理に超音波(Ozil 含む)でやるより ECCE のほうが好きだ。剥離はできたら経強膜バックルでやりたいし、硝子体もワイドビューは使えるが内視鏡も好きだし、ランダースプリズム程度のなんちゃってワイドビュー使うのと前置レンズ使うのと、たぶん時間はそう変わるまい。トラベクロトミーもする。

しかし、そういうちょっと古びた手技については、若いもんにどもまでやらせるものだろうとも思う。そもそも、よそで育ってきてある程度固まると、それ以外のものに手を出したがらない傾向が最近強いような気がする。

そう思ったのは、それなりに硝子体手術までこなせるのに、「PI」やったことがない、という若手がいたからです。
狭隅角のACGには水晶体再建をして隅角あけて、というのは基本であるが、炎症で虹彩後癒着してブロックになるので PI したい、ということは必ずあるのです。レーザーだと何度やってもふさがります。
やりたそうな顔もしないので、これどうする、ときいたら、カッターで切りますというのだが、それだけのために高いカッターおろすんかい、というと、うーん、といってた。ま、前嚢セッシとサザランドの鋏で、中でつまんでちょっきんやる手もありますが、前房に入るのもなんだかですしね。
輪部を切って虹彩根部をぷりんとはみ出させて切るだけのかわいい手術は、できてもいいと思う。

それもこれも含め、「覚える気に」ならないと、手術というのはできるようにならない。手術書やビデオからというのはちょっと効率悪いし、実際にやってる人から学ぶのがいいのだ。逆に言うとやる人がいなくなったら誰にもできなくなるわけで、技術の継承というのは、どこの職人の世界でもそうだが、大変だし、はかない。

飲み食い 陽燈館 京都 など2011/10/12 01:25

陽燈館 今出川室町西 京都
スナックバーというのかな。ステンドグラスなど内装に凝ってて、ワインほか洋酒がでる。簡単だがちょっと凝った風なおつまみもあるし、スノビッシュで、町外れにいいものあるんじゃないかと思うちょい歳いったキャリアウーマン向きか、いやそういう人がいたものでw。おちつく感じだし、好きな人はいるでしょう。テーブル席もあります。
2品いただきてきとーに3-4杯いただいて6Kほど。






マスターと、バーテン服女性がふたりでやってたが、その女性のほう、しゃべりはじめると、客を楽しませるのではなくとにかくしゃべりたくてしゃべってる風があって、自分のことをだらだらしゃべりたいおっさんにはつらいと思う。
とくにカウンタに座って30くらいの女性の自分語りをききたかったら喋ってくれると思うので行ってください。サーヴはちゃんとしてます。


名前知らん店 今出川新町より西
外に出ている営業時間よりずっと早いし、おもてに open ともでていて、一杯のみ歓迎的なことも外に出ているのに、ドアをあけたら今日はもうしまいですと言われた。
気分悪いのでもう行かないと思う。





再訪

くれたけ 伏見桃山駅前
中華。改装後小皿が通常メニュになくなったので飲みには向かないが、炒飯はそこそこちゃんとしてる。焼きそばが硬くなくてちょい残念。子供のころここで食ったラーメンは辛かった印象があるが、いまは鹹い(塩味が強い)ほうが強いかな、家内は食後のどが乾いたとしきりに言った。
改装前に、いまは亡き「寿兵衛」おやじさんのご夫婦が食事してるとこにぶつかった思い出がある、冷やし中華食ってたっけ。今あるんかな。

能登 長浜
子持ち鮎がでてきた。

知人宅の飲み会
17時から飲んで、もちよりでいろいろ食うほか手持ちのとうもろこし粉でウガリ作ったり。
個人宅にいるだけに本をひらいたり映像見たりCDきいたりで、だらだら飲んで10時間耐久コース。翌日は死亡。50歳じゃ体力無理ね。

MISONO 洋食 大阪 なくなったラーメン いちばん 京都2011/10/15 22:25

「TEA ROOM MISONO」 九条 大阪
延伸したといっても中之島とまりの京阪だが、九条までのばせば阪神とも接続できる。外資がちょっかい出さねば京阪阪神連合が成立して、九条で京阪と阪神近鉄地下鉄が連結し阪急JRとは別の、神戸ー京都の軸が成立する可能性があったのだが、ご存知の通りけっきょく阪神と阪急がいっしょになってしまった。
ちなみにあの外資介入の時期に、ペンタックスもHOYAにとりこまれた。ほんまろくなことせんなとおもう。サッポロががんばってるのがいい。
自由化は一般人の不自由しか生まない。 TPP なんかやめるべきだろ。




で、この九条商店街ですが、喫茶店兼用のくたびれた洋食屋、床のリノリウムも怪しいこの店。ビフカツをオーダーするとおどろいたことに奥から肉を叩く音。そして、ちゃんとうすっぺらく延ばされた肉がビフカツになってやってきた。




現存の洋食屋として、ワラジにもっとも近い食感であります。こんなところで食えるとは思わんかった。つけあわせのフライドポテトも刻みキャベツもするーしてよろしい。君、これは大変なものなんだよ。


なくなった店
「いちばん」 ラーメン 川端今出川 京都
眼鏡かけたおやじのイラストのあった店、30年前からいつ前を通ってもそんなに客がいるわけでもなく淡々とおそらくご夫婦でやってられましたが、閉店されたようです。数回食ったかな。ふつーのラーメンでした。居ぬきで新しいラーメン店になり近く開店のもよう。




大学近辺だと「東京ラーメン」もなくなりっぱなし。「らんたん」ラーメン、いつまでもちますかね。

私がむかしよく行って、今のこる店では、「万遊軒」のからあげ、「おかもと」のカレー、「クラークハウス」のサンドイッチ、「番鳥(ばん、あわせて1字)」の中華丼が、いつまであるんだろうとは思う。
「喫茶誠」はいまでもありますかね、黄金焼きをよくいただきましたが。
強い売りはないけど病院南の軽食喫茶 「Bon Bell」 も、常連向けの店ですが、雑誌新聞はそろっています。一時期医局員がみな行ってたもんです。

とある外科系当直日誌 その12011/10/18 01:13

ずっと以前の当直記です。個人情報w保護のため、事実関係が変わらない程度に改変してます。類似の人がいてもそれはたまたまです。
ま、いまどきの二次救急外科系当直はこんなもんということで。

午後5時15分
うちは2次救急だから、電話の問い合わせには、入院がいると思ったらどうぞきてくださいと説明するよう主任に言うも、よういいませんと。
午後6時
18歳 2週間前から痛いふくらはぎをぶつけたと母親と一緒に普通に歩いて登場。今の時間じゃなにもできないし、湿布だけ貼って明日整外にかかれとナースに回す。緊急処置中でまたされたせいか、湿布はいらないと母親が言いにきて、帰っていった。
午後6時25分
9歳。 午後学校でジャングルジムから落ちたとびっこひいて入る。左下腿前面に擦り傷が軽くあって、はれている。体重かけられないというのでレ線。骨折線もなく、擦り傷にイソジン塗って絆創膏。氷嚢ではれた部分を冷やして明日整外受診してくださいと説明。向う脛はそりゃ痛かろう。
午後6時35分
2歳。 夕方金属の柱で頭ぶつけたと。意識清明、良い機嫌。おでこにちょっとした瘤、あたった傷。イソジン塗って絆創膏。CTとりますかというといらないと。
午後8時 連続で4人。
90歳。 農作業中蜂にたくさん刺されたと。たしかにたくさん刺されているが、アナフィラキシー症状はないので、消毒して内服と軟膏処方。元気やな。
13歳。 バレーの練習で尾骨をうったと。歩行起座に問題もないので、明日また整外にかかることといって湿布と痛み止めを出そうとしたら、母親がレ線は?という。この状況で何があってもすることは同じというと、大丈夫かときくので、なにをしても大丈夫な保証はないし、レ線とっても読影にまた明日整外に来るのは一緒と説明。救急ですませようとするなよ。
2歳。 夕方から足痛がると母親。深爪で化膿したよう。イソジン塗って軟膏でガーゼ巻いて、内服処方。明日形成へ。まー爪も切らない親より数段ましか。
9歳 午前学校でこかされて頭打ったと。いじめられっ子か?吐き気も何もないが母親がやたらCT希望。大きなものは特になにもみあたらず明日脳外へと。
午後9時
医局の会議室が紛糾していると思ったら、ちょうど内科H先生が出てきて、きくところでは、医師が2人退職するのに救急業務のバックアップ化をさらに命じられた内科の先生方が切れて、院長以下管理サイドと交渉中とか。
各科センター化して救急も待機もやめましょうと、ちょっと出てきた内科の先生にエールを送るが、ついでに出てきた副院長の態度を見てると難しいやろうねえ。副院長はお花畑にも、眼科医会にはたらきかけて当県の眼科の救急輪番は出来ないのかなんていってる。
それってこないだ崩壊したばっかりですがな。うちみたいなとこが無理して眼科待機をおく限り、ほかの施設も眼科医会も本気で眼科輪番再生なんて考えるわけないだろうが。やらしときゃいいんだから。
救急には、境界型人格障害のリピーターが腹痛いとかいって内科で来てる。こいつは眼科受診時たいしものはないに大騒ぎして、挙句に私に怒鳴りつけた奴だ。その後時間外の外来をうろついていろんなもんを盗んだりして警察沙汰になった。それでもしゃあしゃあとくるねんなあ。顔見るだけでやる気そがれるねえ。
午後10時30分
45歳。 尿管結石。昼近医で当院受診を指示されて明日くるつもりだったが痛みに耐えられず受診。尿すっかり赤茶色。KUB撮って、泌尿器待機医に電話で相談してボル坐。
看護師のまとめる日当直管理日誌をぱらぱら読むが、数日ごとにクレーマーがきとるな。
内科のF先生がおりてきたので、話し合いはどうなりましたかときくと自分の口からはよういいませんとうれしそうにのたまう。
11時
7歳。 全身蕁麻疹、原因不明。すこし唇もはれてるのでステロイドかませて内服処方。
11時30分
内科の研修医の先生がなんでか救急に外からまわされてきた電話に自分で出て(目の前にあったしナースもいなかった)、症状を聞いた挙句に、きてくださいみさせてもらいます、などといってる。それは違うやろうと意見してしまった。先生は貴重な医療資源なんやから自覚しなさいと。いや、御自分のクリニックを持ってやるなら非常によいことで止めないけど、公立病院の多忙な内科救急で、医師が直接電話に出たり見させていただくなどといったりしていては、現状では「お客さまの勘違い」を招いて体制崩壊を早めるだけ。
0時
上記結石患者、痛みほぼおさまった模様。どーんとした感じはあると。それは仕方ないので、ボル坐もたせて、明日受診するようにと。主任ナースは、次は救急車でくるでしょうと予言。
当直室で就寝するも、、、コール。
午前1時15分
45歳。 4時間前夜勤で重いものをもっていて腰に激痛と。夜勤を早退して休んでいたがやはり痛くて来院。ボル坐いれて湿布はって明朝整外へと。
午前1時45分
転倒して運ばれてくる老人がいると電話連絡。
午前2時15分
50歳。 前日鉄を切っていてなにか目に入り、どんどん痛くなってきたと。懐中電灯でたしかに鉄粉らしいもの角膜に乗っている。綿棒でこするとそれなりにとれたが、茶色のしみがとれず、やむなく病棟に上がりスリットつかってサビをけずりおとした。軟膏に眼帯で、内服と点眼。医大には断られた、近所の総合病院も眼科医がいなくて、というのでよくみると車で1時間以上遠い地域の住民。
眼科医が当直にあたってるときにはそれが救急には知らせてあるのでそういうときは遠くからでもやってくるのだが、どこの当直にもあたってないときは、ほんとの救急時はどうなるんだろうねえ。うちにきて待機の眼科医を呼び出せとわめくもんもたまにはいるそうな。
あれこれしていると救急隊到着。
2時45分
85歳。 転倒して後頭部より出血と。切れているがもう血は止まっており、消毒してガーゼのみ。認知症あってようわからんが、熱もあるので、CTオーダーして内科救急にバトンタッチ。間質性肺炎で入院になった模様。
7時
起床。その後は内科外科ともになにもなく、珍しく静かな夜だったというナースの感想。とんでもない怪我人も、頭に来るほどの軽症者もいなかったし、めでたい。

飲み屋の同窓会 リラ亭-かりん亭2011/10/30 21:18

三条河原町を二筋下がって(南下して)木屋町のほうにはいった通りは、かって、呑みに行くのにちょっといい通りだった。80-90年代です。
木屋町の手前北側にはタクシー乗り場があった。その南には「凱旋門」というコンパ会場があって当時の学生はいっぺんぐらいは行ったろう。そこから東へ、かっぱ寿司(先斗町にある店の関連店です、世間的なかっぱ寿司ではない)の支店、喫茶「文月」、スナック「貴林」と、時期は違えどけっこういったものです。バー「アルペジオ」てのもあったよね。
これらはすべて今はない。現存する店としては「スナックそんぶれるろ」は大学のクラブのいきつけでよく歌ったもんだが90年ころマスターがなくなられた後はよくわからないし、「秋田家」は一度いったきり。ワインバーの「クロ-ド-ブージョ」だけはちょこちょこ寄る。

この通り、なかほどの北側に、カウンタのみ、5席ほどのちいさいバーがあった。
戦後から40年以上にわたって「リラ亭」の名前で、さらにマスターがなくなり客の一人であったハセ氏があとをついで10年ほど「かりん亭」の名前で、2001年ころまで、やっていた。
私は、リラ亭の時代は知らない。1980年代はじめ、数軒となりの喫茶「文月」にいりびたったころも、存在はぜんぜん知らなかった。
2000年前後の、かりん亭の最後の数年、ちょこちょこ寄っていました。たいがい客は数人でした。明治屋のライムシロップでつくるギムレットがよかったのですが、どうやらもともとには異様に濃い常連がたくさんいたようで、後述閉店が決まると昔の客がどんどん戻り、盛り上がると狭いカウンタの中に客が入って皆で飲むという基地外のような状況もあった。自己主張のつよいおっさん(その時点で50代以上でしょう)がいっぱいいたので、当時40前の私としては、話をするのがすごく楽であった。

ハセ氏が丹後で料理民宿するので店をしめた。閉店時はこれもやはり基地外のような騒ぎで前の道まで溢れかえって人々が飲み、関連して新井英一氏のライブが行われたりした。

その後若手の常連が同窓会をするにいたった。NKNさんTNKさんご苦労様としか。
5年前には、松井旅館でやったのですが、今回はロイヤルホテル。常連たちは戦後からずっと飲んでるような人たちだからご年配が多い。人数もぐっと減りました。
私は最後の数年呑みにいってただけで、この同窓会にもどっちかいうと面白がってきているだけであって、こんなとこに俺居ていいんだろうかと思いつつ、年配のひとたちの「ボボの歌」とかでたらめなドイツ語風の歌とかをきく。




ちょっとした宴会場が、へんに広々としていたのが、あっというまに飲み屋の空間になっていった。
さらに、ハセ氏のファンでもあるU氏がやってる、裏寺のバー「剣」になだれ込んだ。早い時間で、素面の人たちがどんどん通る前で、わいわい呑み騒ぐ。5年前は隣の店の人が警察呼んだらしいが、今回はそこは空きテナントw





眼科関係の会合があって暗くなる前に去ったのですが、それにしてもあの人たち普段はどこで呑んでいるのだろう。