「新九郎奔る!」「アンナ・コムネナ」雑な感想2024/04/13 10:25

全くの創作よりある程度史実に基づいたお話のほうが読みやすいことが多くなってきた。人間の行動にしてもその周囲の状況にしても「それはせんやろ」「それはないやろ」ということが、完全な創作に比べて少ないせいで、まあ受け容れるキャパが狭くなっているのだろうと思う。

だから、歴史ものでも最近は司馬遼太郎とかあまり読み返す気にならない。内面描写が不自然なことが鼻についてきたせいでもあり、史実を、たぶんわかったうえで、都合のいいところだけ選択したりことによるとつくってしまったりしてきたのがわかってしまったせいでもある。

というわけで、最近はコミックですが、「新九郎奔る」「アンナ・コムネナ」がわりと気に入ってる。以下ちょっとネタバレします。

読みながら思うのは、正統かつまともな裁定者のいない下での実力主義とか成果主義の放置とかは状況をめちゃくちゃにするだけやなあということで、閉じた集団の中でそれがあればその集団そのものの力は落ちると、自分のいた医局のこともふりかえれば思うのであって。
きょうだいで力を競えば親が死ねば殺し合いになるのはリア王を引くまでもない。

室町時代のぐちゃぐちゃはたいがい家督争いから起こるのだし、それを多分教訓にシステムを作った徳川が安定したのは、なにがあっても長子優先にしたからというのも一つはあるのではないかと思う。

それを思えば、「アンナ・コムネナ」の主人公アンナは、怒りはわかるが、やってることは父帝が衰えたあとでは内紛でしかないわけで、集団としての力を考えるならヨハネスが正しい。

次期皇帝の妃になるはずの皇帝の娘だったが結婚相手がこけた、というアンナはそれでもあきらめない。
ですが、弟が皇帝となる正統性を制度上はじめから持っているのね。
性差のために最初の権力争いに敗れたのが前提としてあるので、そこから次期皇帝の自覚ある弟を相手にさらに手を変え品を変えぐいぐい権力争いを続ければ、そりゃなりふり構わないのがこの手の戦いなんで、優位な相手に性差構造温存のままに踏み潰されても当然の帰結。
ヨハネスにとっては姉は簒奪者なんで、これはただの権力闘争です。べつにどっちが悪いとかいう気はないです念のため。

「性差をひっくり返す」「権力争いに勝つ」を、おおっぴらに「筋を通して」両方やろうとしたのが敗因としかいいようがない。
ヨハネスが女性を狭い箱に押し込む方向にどんどんいったのも、姉がぐいぐい押してくる反作用でしょう。
体制内の「敵」を放置はできない。弟のサポートに徹すれば女性の立場は守られたかもしれないという意味のない「もしも」を考えてしまう。
自業自得とはいわないけど、「正しければ相手が従う」なんてことないので、そこを貫こうとしたのは政治力のなさです。育ちや立場上それは仕方のないことなのですが。ニケ太郎は大変やなあとも。

アンナ寄りのこのコミックを読んですらそう思います。
絵はほんとうにきれいなんですけどねえ。

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