日本語ネット発信、もしくは油断2014/10/23 16:04

こういうブログがあった。過去形です。
もうC型肝炎じゃない妻を持つ夫のブルース

シカゴ在住の技術職の方のブログらしかった。
その、サブエントリで、今回のノーベル賞、青ダイオードの中村教授についていろいろ書かれていた。

日本人3人のノーベル物理学賞、シカゴじゃシラけているぜ!」2014年10月19日


私がこの文章を面白いと思ったのは、アメリカ人は無理解で困ると、わざわざ日本語でえらく詳しく書いて、ぼやいていたからです。
ここまでちゃんと書けるのになんで英語で発信せんのやろうと思ったからですが、オチまでついて、日本語で発信する時点で油断しまくってるんかと思った次第
たぶん私やあなた、日本人のだれにでもあることです。


内容は、いんちきな中村教授のいう日本の悪口を、米国人が真に受けるので相手するのが面倒、程度の話。いんちきと彼の呼ぶ内容については、以下のサイトに書いてあることと、そうかわらなかったと思う。

Tech-On スペシャルレポート 中村裁判

ところが、これが、あっというまにヒットがあつまってしまい、挙句に、中村教授案件と関係なく、そのブログのなかで社外秘のものをみせているのが会社にばれてしまったという。
そりゃ見る人が増えたらそういう機会も増えるわけで、当然閉鎖になった。
赤の他人にはべつにどうってことないことで閉鎖に至ったので、炎上とは言わないと思うが、本人にとってはそれに等しいでしょう。

私は、このブログが書かれて数日後に知人に教えてもらった。知人も、また、知人に教えてもらったらしい。
そこそこわかりやすく、あの極端なキャラは胡散臭いと書いて見せるものだから、いろんなひとが面白がってシェアしたんだろうと思う。ついこないだのノーベル賞だから、まだまだ賞味期限はきてない。、
でも、中村教授は、私にはどうでもよかったわけで。

ブログ主氏、アメリカ人にいろいろ説明するのが大変という枕からはじまり、その説明の根拠についていろいろ詳しく書かれる。
シカゴ在住でちゃんとしたバックグラウンドもったひとが、日本人視線で、そこそこの文章を書けるのに、日本語でブログやるって、日本人しか対象にしてないわけでしょう。
なんでこの人、英語でやらないのかと

たぶん日常じゃ英語もしっかりつかっておられるでしょうし、書くのがはじめから英語でもそんなに使う頭はかわらないと思うので、大変もったいないような気はしたのであった。
気楽ですみませんが、日本でやるより、心理的にもよほどハードルが低いはずです。

もともともっとプライベートなことを書いておられたようで、仕事や論文と違う、という人もいる。
でも、論文の文体でも十分いいんじゃないですか。つか、ブログの文章は論文で十分いける。
まあ英語でものを書くのはマジで、日本語ブログはあいまの気休めかもしれません。でも、このネタ自体、数ページにわたって、けっこうリキはいってたのである。

英語でやりゃいいのに、いや勿体無いなあと考えたものだった。

ところが、、仕事場の、みせてはいけないものを載せてしまってコンプライアンス違反(笑


英語ででけんわけや、、、、これは脇が甘杉
一気に、つぶやきツールのバイト君並みの話になってしまった。
ご本人も、自業自得と、自覚してらっしゃる。
内輪気分であれこれ書いてるうちに、たまたま大当たりがきてしまったのでしょうね。

陰謀論をとなえる人もいたようだ。
でもね、上にも書きましたが、目を引いたら晒されるリスクも増えますって。
だってそれまでせいぜい300人が読む程度だったもんが16万人にw一気にふえたんでしょ、いろんな人が来ますよ。チクリだって入るだろう。
ネットはそういうもんで、ご本人もヒットが増えてたぶん途中までは面白がってたわけで(笑 ←これは邪推です。

かにかくに「内輪」気分でいるのは、居心地がいいもんなんやな、とは思った。油断もするだろう。
そもそも日本人が日本語でブログやること自体が、内輪のぼやきでしかないわけやな、というのが非常によくわかる騒ぎでした。日本語というのは、感覚として、世界とシームレスにつながってはいないのです。その場での相互の事前了解が前提、閉じた世界の秩序をさだめる言語というのかね。まったく呪文であって、言霊というのもうなづける。ハイコンテキスト言語というらしい。

このあたりの感覚、学術は言うにおよばず、コミックですらそうである。
今週号の週刊モーニングの「いちえふ」で、福島第一原発をネタにコミックかいてられる作者がいろいろ取材を受けるられるのに、外国からの取材者は話が大きくて国連総会でスピーチするべきといいだす、というくだりがあった。
しかしたぶん連中これマジだよ。
英語圏(私の知る限り)で英語を使うということは、そのまま世界につながる行為なのである


ところで、その、日本語圏という閉じた文化単位が、異様に隆盛し、そして人口が減って閑散としていくありさまを、われわれは目の当たりにしているわけです。

日本語でなんでもできてしまうのがいいのか悪いのか、かっては大変な武器だったのだがそれを維持するには人口規模が必要。
そこのところについてはもう、少子化と人口構成比の点でポイントオブノーリターンを超えていると私は思っている。残念なことである。
私も、いまいるわが子らに文句はないが、あと一人くらいほしかったものだ。このぼやきもハイコンテキストであって世界にはつながらない。