医学を医学たらしめるもの 呪術となにがちがうのか2010/08/09 22:42

最近またホメオパシーがどうの西洋医学の限界がどうのという話をあちこちで聞くのですが、、、

すくなくとも、西洋医学については、最近は「エビデンス」というものが重視されるようになっている。
「エビデンス」というのはつまり、「統計的に有意である」ということです。
医者でもよく引っかかるのですが、一見ある治療がきいたように見えることがあり、くりかえしているうちによく調べると実は意味が無いことがある。でも、「効く」と思い込んだ人にはもうそうは思えなくなってしまう。
また、自分で勝手に理屈をつくりあげて、起こる現象をそれにからめてなんでも自分で整理してしまう人もいる。
こういうことを避けるためには、統計的に意味のあるデータをとって調べるしかない。だから最近疫学調査が流行っているのです。

西洋医学に限界があるのはあたりまえで、だからすこしでも有効な方法論なりをみいだすためには統計処理は欠かせない。「西洋医学が駄目だから」といってすぐに飛びつく人がいたりする民間医療やら独自理論の医療やらは、西洋医学のカウンターパートでも代替でもなんでもなくて、エビデンスすらない未熟な信仰に過ぎないというのが、まともな医者の、その手のものに対する態度と思う。
ちゃんとした医者は「心の平和」についても知ってるから、まあそれで気が済んで平和に暮らして死んでいくならそのひとの人生にとってはいちがいに否定するものでもないよね、と思う。アホみたいに最新医療に金かけてけっきょく死ぬなら、こじんまりした民間療法で静かに死ぬほうが医療経済としても有利かもしれない。でもこれは、その治療法自体の有効性とはべつの話です。

カーゴカルトというものがある。どっかの狩猟か焼畑文化段階の部族が、飛行場をはじめて見て、荷物をたくさんつんだ飛行機がどんどんやってくるのを目の当たりにし、自分の村にも飛行場に見える平地をつくって、宝物をつんだ飛行機がやってくるのをまつのである(最近の新設地方空港と何が違うのかといわないことw)。これを、形式さえととのえたら結果がついてくるはずという呪術的な態度としてファインマンが、そういう疑似科学もあるとおおいに批判したのですが、まったくこれなのですね。
護摩をたいて疫病を散らそうという態度となんらかわらない。

サイエンスというのはものの考え方です。試行錯誤は当然で、いちどまちがった結論にいってしまっても結果を評価してやりなおしがきくのが科学的思考法というものです。「真理に誠実」というふうにいった、かっての上司もいました。まちがった結果に行ってしまうからサイエンスはいけない、のではなく、まちがいをまちがいとしてもどってこれるのがサイエンス、そうでなければただの偏屈な屁理屈に過ぎない。

先日、知人から聞いた話。
網膜剥離で、再発した患者がいた。もともと態度の横柄なお客様気分の若い患者だったのですが、へんに態度がよくなった。で、2度目の再手術時、初期の PVR と考えてシリコンオイルをいれるにしても、念のため輪状締結したほうが固いと医者は説明したが、患者はノーといった、「いや、もう治るはずです」。その後、シリコンが入って落ち着いてきたところで、医者は、念のためレーザーを入れておいたほうがいいと説明したら、患者は、るる語り始めたそうだ。
自分はなんで治らないのかよく考え、家族とも相談し、生活や人生に対する態度がなってないことに思いいたった、で、考えを改めた。だからもう、あれこれしなくても治るはずです。
医者は、あきれますわな。態度がおかしくて考えが甘かったのはまあそのとおりだが、だからって再剥離とは関係があるなんてなんの確証も無いし、再剥離を繰り返す以上その場で出来ることはなるべくするのが当たり前なのであって、こうすればもう再発しないなんて保証はないのです。
けっきょくレーザーだけはやって、いまのとこおちついてるようですが、自分で勝手に神様と取引したような気になってもらっては困るのですよね。こういう人がホメオパシーにはまるんだろうなと思う。

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://inakameishi.asablo.jp/blog/2010/08/09/5277345/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。