これはなにかね京都大学新聞2013/12/26 11:53

もと高校の先生が英語でがんばって教授にまでなったのはえらいと思うけど、あまりにアホな内容で、さすがに理解不能。知性の問題をここまで無防備に言語の問題にすりかえるかな。
無意味な「英語覇権論」を垂れ流すのもやめてほしい。言語が思考を規定するのはわかるが、それをその言語使用主体民族がコントロールできるという幻想はなんなのか?ネイティブスピーカーに言い負かされて悔しかったのだろうか。民族国家と言語がほぼ同一である日本人ならではの発想ですが、この発想のどこがグローバルなのか。
「ボクは英語の専門家だから、英語教育の問題点も知り尽くしてるよーーん」というアピールに見える。はいはい立派。。

人口が密集しないと社会のレベルは上がらない。田舎に人がいないのがけしからんといっても、実際に人口が分散したら社会そのものが消滅するのは過去の歴史を見ればわかる。
これはサイエンスでもかわらない。

すくなくとも医学系では現状では論文雑誌は英語論文が基本で、そうじゃない雑誌もまともなとこはフランスだろうがスペインだろうが英語の抄録つけるんだから(PubMedもこれでひっかかる、と思う)、英語でのやりとりを基本にしてなにがいかんのか。
べつにみんな異文化理解したいわけじゃなく共通言語でサイエンスしたいだけなんだし。

けっきょく、これを掲載するにあたっての京大新聞の結論は「大学構内に英語だけじゃなく一般市中同様ハングルの交通標識をつけろ」じゃないのか。
インタビューワが「朴」とか「千」とかいうのも邪推に油を注ぐねえw

http://kyoto-up.org/archives/1905
寺島隆吉 元岐阜大教授 「グローバル時代の英語を考える ― 「外国人教員」「英語で授業」は何をもたらすか」 前編(2013.11.16)
「グローバル人材ってそもそも意味不明な日本語なんだけど、世界的な視野で物事を見るという意味でグローバル人材を考えるのであれば、英語をしゃべれるようになれば異文化理解というのは非常に不可思議というか、むしろ英語という眼鏡でしか物事を見れない人間を育てるから、グローバル人材と逆行してると思うんですよね。」



追加 12.28.
へんなコメントがきたので、答える義理はないですが、鬼の首とったような突っ込みには最低限の説明をした上で、再度わかりやすく書いておきます。内容は同一のつもりですが。

そのコメント、語論する気はないので全文引用はしませんが、以下のごとし。とんちんかんな要約書きやがってと思われるのでしたら、そのとおりこっちは馬鹿ですのですんませんが。

「言語の共有化で、インターフェースへの慣れを利用して、無自覚に世界観や価値観を取り込ませる、のがわかってないのか、日本だってそれをやった。MSワードしか使わなきゃ、ほかのアプリが使えなくなるぞ。医学というたんなる一分野で英語を共通言語として使っているという錯覚で、高校教師上がりだのと医学系の優越感をばらまくな、恥ずかしい」、という内容と考えますが。

べつに世界観を共有させる道具として使うことを否定なんかしていません。ことさらに日本語でそれが有効に思われたのはまさしく「民族国家がほぼ言語に一致する」からだったのです。それは書いた。

英語を日本人の価値観を共有する道具として使えるかもしくは英語では日本語的価値観が通らないかは、その英語を使うにあたっての知性の問題だといっています。
くだんの教授の論法は「英語ネイティブと英語で議論して、押し負けた、母国語で議論できれば勝てるに決まってるだろう、ああ悔しい」ということにしかみえないのですよ。ネイティブコンプレックスというか。

使用言語で質問に対する返事が変わるのはよく知られていますが、その結果引き起こされる社会的な事象はじつはそんなに違わない。知性があれば対処できることで、少なくとも大学のレベルで騒ぐことか?

加えて、アングロサクソン以外が英語をどんどんつかったとしても、これはつまりは英語がアングロサクソン以外の価値観の中に拡散しつつあるのであって、英語を使うことで世界が英語ネイティブにコントロールされるということのほうが妄想に近い。
中国人、ロシア人、インド人の使う英語は、いかに英語の文脈にのっとってつかわれていても、どうしようもなく中国人、ロシア人、インド人です。中国人、ロシア人、インド人が、下手な英語ではげしく議論するのを見れば、むしろネイティブやべえという気にすらなる。それが英語ネイティブのいない状況で行われるのをみたりするとけっこう面白かったりする。

われわれは日本語を持っているのであって、さらに英語を持つのであれば、これはすでにモノカルチャーではない。英語しかもっていない英語ネイティブより価値観の多元化に有利であって、第3言語の価値観への壁は格段に低いと思う。これはべつに英語に限りません。

しかしながら、とくに大学のような、親睦を深めるためではなく知識体系自体のやり取りの必要な組織では、幹になる共通言語がどうしても必要。
みんなそれぞれちまちましたマイナー言語でやりとりしてたんじゃ何も生まない。知識のイノベーションには人口密度と人口規模がいるのです。
この状況で、ラテン語でも使えというのだろうか。

べつに医学系に限った話ではないと思うし、実際文系、工学系で、この文章について私に似た感想を持つ人を私は見ています。私自身は医学系しか実際には知らないからそのように書いたまで。
高校の先生云々はべつに優越感は感じていない。白川静もそうであったし、えらいなあと思う。高校教師上がりで数学の大学講師やってる知人もおりますが、そんなによくある経歴ではないだろう思ったから書いたまで。
論法の内容が経歴に関係してるかは読んだ人が決めたらよろしいです。
こっちはちんけな目医者でしかない。このさき教授になる予定もないよw たかだか目医者がなんで教授さまに優越感を持つというのか。

多言語使用をけなしてるんじゃないし、マイナー文化への目配りや、言語間の価値観の違いを否定する気もないです。言語が内容を規定することだってそのとおりだと思うよ。

「英語による世界征服がやばい」という、現実的にほぼ意味のない煽りを、大学構内の道路標識に英語しかないことを枕にしてはじめるのがお笑いといっているのです。