「桐島部活」映画感想2013/01/06 20:03

ひさしぶりに京都みなみ会館にいって、「桐島、部活やめるってよ」みてきた。
ネタばれ注意。




ちゃんとできてる。快く映画していた。
よくできたアニメが実写であればこんなふうなんだろうなと思った(おい)。
不自然な役者も出来の悪い芝居も不自然な編集も下手なカメラもほとんど気づかなかった。都合のよさをカバーしてあまりある視点の転換もわかりやすい。大々的に売られる邦画の出来の悪さに辟易していれば、この映画は買い。
むかしは日本人の役者は男は兵隊女は娼婦が最も似合ったというが、いまは、高校生役なのかね。短いな出来る期間。

ラスト近くの屋上のシーンは爆笑するしかないと思うのだが、笑ってる観客がいなかったのがよくわからない。

好きなことをやってるが大したことない(と自覚もある)連中から、できるけど好きでもない連中まで、ぐるっと意図的に出てくる。
この世界から桐島というスーパーリア充(万能人とはちょっと違うだろう)が抜け出したあとに、残された人たちの話である。
桐島は、最後まで出てこない。屋上の上の突起にちらっとみえた男がそうなのかもしれないがわからない。この男とすれ違うのは、リア充と完全対称に描かれる映画部連だけである。
「好きだけど駄目」「できるけど好きじゃない」の間は一歩であって、できるけど好きじゃないことをやめてできないけど好きなことに飛びつけばこの円環構造は閉じる。ただ、飛ぶには意志がいる。切る力が要る。男は屋上に飛び降り、映画部連は何も知らずあがっていく。
階段で両者がすれ違うのはあざといまでである。この映画で、好き嫌いがわかれるとしたら、この手のあざとさについてではないか。

ベケットの「ゴドーを待ちながら」では、来もしないゴドー(→ゴッド)をまつ人が描かれる。この映画では人々は不在の「桐島」のまわりで右往左往するのだが、「桐島→キリスト」と読み解く人もいるようだ。
原作を知らないので映画だけでいうのだが、この映画そのものはむしろシャカの話であろう。ここでキリストだのシャカだの、「聖☆おにいさん」の話をする気はないが。
人がこの世に見切りをつけて去り、残されたものは理解できず戸惑い、それでもこの世にいるものはその日を生きていかなければならないという受容の話で、シャカが出家したときも、カピラストウの城内では、同様のありさまが繰り広げられたことであろう。
知った人に自殺されたときに、見捨てられたのは自分たちだと思ったことはないか?そしてまた、自分もそのうち死とともにここから去らねばならないことに気づいておののいたことはないか?
もしくは、「Angel! Beats」。何がしかの理由である世界にいる生徒集団から、条件を満たした者が抜けていく。この映画でも、アニメ同様、親の描写は一切ない。映画部連がよく描かれすぎと思うが(そしてあのカメラはZX850かなんかか?マイク付きにはみえなかった。そもそもシングルエイトカメラのファインダは、あの本体サイズでも、知らないもんがいきなり覗けるほどアイポイントはフリーじゃないよ)、ゾンビ映画を撮る監督が「撮ってるものと現実がつながっているような」と口走る。こいつらの世界は死者の世界で、そこから上の世界に召還されていったのが桐島ということなのだ。いや、下の世界かも知れんけど、そこはこの映画の問題ではない。
この桐島が、上の世界でどうなるかは分からない。自分の意志で飛び越えたとして一からやり直すなら、この世界はかぎりない螺旋で出来ていることになるだろう。

自覚的に無理なく手に入るものにはありがたみはないといっても、位相をかえるのがすばらしいかというとまた別の問題。いる場所でできることをするのも、大乗では「悟り」ではありませんでしたか。こうして、野球部員はたぶん野球に戻っていくだろう。でも、そうしないのもありだなと、今更ながらに思わされる。ひとつ上からの視点を観客は獲得するのである。

ちょっと格好つけすぎかもしれない。「自分探しの旅に出たローカルヒーローと、残されて戸惑い焦がれて泣き狂う凡人たち」でも十分面白く見られます。生まれて初めて遅刻しそうになって、言い訳探してるうちに引きこもってしまったとか(笑 桐島がどうなったかうろうろしているうちに、みな、自分がどうしたいのか問いかけ始める。

それにしても映画中の下手アマチュアゾンビ映画というと「super8」そのもので、8ミリフィルムカメラを振り回すモジャ眼鏡カントクとでっぷり助手が庵野氏と岡田氏を髣髴とさせるあたりも笑ってしまうのだが、そしてその異様に典型的な実在の2人のバックグラウンドは特撮変身テレビ番組とヤマトだったのに時代が違うとゾンビだとか余分な話なのだが、ロメロのつくりあげた「living-dead」設定って、ほんといろんなとこに使いやすいし、影響された人も多いのね。コミックでも、川原泉はゾンビ映画好き女子高生でネタをひとつ作ったし、花沢健吾も、福満しげゆきも、もろにゾンビもの連載中だわ。

高校生という、単純化極端化できる状況設定であるからこの映画は一般性を持ちえたと思う。これは「思い出の高校生活」でもなんでもない。シチュエーションは大きな変形もなく容易にその後の人生での出来事に転化できる。でも、もっと年長者の生活空間で舞台をつくると、ややこしく生々しくなりすぎるものな。個別性が際立ってしまうのだ。悪いとはいわんが。
ほとんどの日本人が経験する、閉ざされて、極端な感情露出も可能で、エッチな要素も引き込める空間。なにがあっても卒業すればゲームオーバー、新規まき直し。高校が、ある極限的な舞台として使いやすいのはよくわかる。

で、いまどきのアニメも高校生が素材ばっかでええかげんうんざりするのだが、高校という設定であれば逆になんでもできるのであれば(戦車道ってなんなんだよ(笑、、)、いろいろな物語世界を作り上げるのに制約として悪くないのかもしれない。日活ポルノが、エロ描写さえあればいいという制約で、そのあとにつながる映画制作をし続けたように。結構危機的な状況なのかねアニメ。これもまた、制約の中で奇形的に進化するパターンか。

みなみ会館には、「カウボーイビバップ劇場版」以来で、10年以上ぶりでした。早い時間には古い映画をちょこちょこやってる。フェイルム国内上映権とか著作権とかをかいくぐったらあーゆーことになるんだろうな、大変だなと勝手に思ったんですがそうなのか?

コメント

コメントをどうぞ

※メールアドレスとURLの入力は必須ではありません。 入力されたメールアドレスは記事に反映されず、ブログの管理者のみが参照できます。

※なお、送られたコメントはブログの管理者が確認するまで公開されません。

名前:
メールアドレス:
URL:
コメント:

トラックバック

このエントリのトラックバックURL: http://inakameishi.asablo.jp/blog/2013/01/06/6683489/tb

※なお、送られたトラックバックはブログの管理者が確認するまで公開されません。