外見の変わらない男2013/01/01 12:41

こないだから同窓会だのあれこれあって、いろんな人に会った。
中高は男子校なのでその時期の女子の知り合いがいないのは残念でありますが。
10代からせいぜい20代なかばまでの知り合いに、50超えていきなりあうと、ほとんどが分からない。名前を聞いて顔を見ると戻ってくる感じです。

席に通されて、「知らん人間のとこは」というと、なにゆうてんねんみんな同期やろといわれて、よくみたらそうだったw

男でも、外見の変わってる奴は基本、太ってるか禿げてるかであった。この2つがない場合、ああ変わってないねということになるらしい。

で、かわってない人をつらつら見たが、もともと、男でもおばさんくさい奴は変わってない。いわゆる男らしい奴ほど原形をとどめない。私もちょっとおばさんぽい(自覚あり)ので、そんなに変わらないほうらしい。

結論: おばさんくさい男は老けない。 理由(たぶん): 最初から老けてるから。

満員電車考2013/01/04 14:07

満員電車は不快だろう。東京では限界まで積み込む、こんなものが受容されている日本社会は許しがたいと思う人もいるのは理解できるし、分割出勤等システムをいじくってなんとかしろという議論があるのもわかる。

しかし、たとえば、会社が始業時間ずらしたら、けっきょく会社同士で連絡取り合えない時間が増えるわけで、そうなると早めの出勤するもんもいくらでもいて残業代はあがるし、いうほど簡単じゃないと思う。
システムいじくって余裕作ったってもとがかわらなきゃそこにまた人間が限界まで入り込んできて、けっきょくもとの木阿弥になりそうに思いますし、そういうシステムは不便が拡大視されるのでどこまでうまくいくか。

この問題についていうと、郊外農村里山ぶっつぶして住宅供給して機能の集中した都心に大量に労働者を毎日運ぶモデルが成立しちゃったからこうなってるのです。本当に能動的に何とかしようとしたら都市計画とか国土モデルとかの話になるが、日本人の社会組織に立った行政にその(立案はともかく)実現化能力がないのは、関東大震災以来わかってしまってるのですよね。

そうじゃない方向に行ったほうが得だよというモデルは民間から(今のモデルをつくったひとりである小林久三のごとく)だすしかないと思うのです。つまり、、問題解決は、行政やソリューションビジネスじゃなくもっと「実業方面」から出るしかないし、問題解決能力が問われてるのは、「日本人(私も含め)そのもの」なわけです。

こういうとき、必ず既得権とぶつかるので、行政には、新しいビジネスを既得権のためにブロックせず交通整理に徹して欲しいと私は思うのですが、(某禿みたいとかたのむから言わないで欲しい)、JASRACみてても期待薄。
そりゃ、みんな国に金を使うな規制が厳しいといいながら、同じ口で、あれが足りないこれを取り締まれといってんですからね。役人はなにをいわれたって「はいはい」と、現状の仕組みをさらにややこしくして予算をとる口実にするだけ。行政を交通整理係で済まさないのはお客様国民の意思なのだ。

もひとつ書くと、既得権が大好き前例踏襲が基本なのは、国民そのものである、あなたも私もね。日本をカジ取りしている人たちは、まさしく、私たちの代表ですw

安全安心があたりまえと思い、クソ著作権なんどがまかり通る社会土壌である限り、殺人的満員電車は、解消されることはないのでしょうな。

「桐島部活」映画感想2013/01/06 20:03

ひさしぶりに京都みなみ会館にいって、「桐島、部活やめるってよ」みてきた。
ネタばれ注意。




ちゃんとできてる。快く映画していた。
よくできたアニメが実写であればこんなふうなんだろうなと思った(おい)。
不自然な役者も出来の悪い芝居も不自然な編集も下手なカメラもほとんど気づかなかった。都合のよさをカバーしてあまりある視点の転換もわかりやすい。大々的に売られる邦画の出来の悪さに辟易していれば、この映画は買い。
むかしは日本人の役者は男は兵隊女は娼婦が最も似合ったというが、いまは、高校生役なのかね。短いな出来る期間。

ラスト近くの屋上のシーンは爆笑するしかないと思うのだが、笑ってる観客がいなかったのがよくわからない。

好きなことをやってるが大したことない(と自覚もある)連中から、できるけど好きでもない連中まで、ぐるっと意図的に出てくる。
この世界から桐島というスーパーリア充(万能人とはちょっと違うだろう)が抜け出したあとに、残された人たちの話である。
桐島は、最後まで出てこない。屋上の上の突起にちらっとみえた男がそうなのかもしれないがわからない。この男とすれ違うのは、リア充と完全対称に描かれる映画部連だけである。
「好きだけど駄目」「できるけど好きじゃない」の間は一歩であって、できるけど好きじゃないことをやめてできないけど好きなことに飛びつけばこの円環構造は閉じる。ただ、飛ぶには意志がいる。切る力が要る。男は屋上に飛び降り、映画部連は何も知らずあがっていく。
階段で両者がすれ違うのはあざといまでである。この映画で、好き嫌いがわかれるとしたら、この手のあざとさについてではないか。

ベケットの「ゴドーを待ちながら」では、来もしないゴドー(→ゴッド)をまつ人が描かれる。この映画では人々は不在の「桐島」のまわりで右往左往するのだが、「桐島→キリスト」と読み解く人もいるようだ。
原作を知らないので映画だけでいうのだが、この映画そのものはむしろシャカの話であろう。ここでキリストだのシャカだの、「聖☆おにいさん」の話をする気はないが。
人がこの世に見切りをつけて去り、残されたものは理解できず戸惑い、それでもこの世にいるものはその日を生きていかなければならないという受容の話で、シャカが出家したときも、カピラストウの城内では、同様のありさまが繰り広げられたことであろう。
知った人に自殺されたときに、見捨てられたのは自分たちだと思ったことはないか?そしてまた、自分もそのうち死とともにここから去らねばならないことに気づいておののいたことはないか?
もしくは、「Angel! Beats」。何がしかの理由である世界にいる生徒集団から、条件を満たした者が抜けていく。この映画でも、アニメ同様、親の描写は一切ない。映画部連がよく描かれすぎと思うが(そしてあのカメラはZX850かなんかか?マイク付きにはみえなかった。そもそもシングルエイトカメラのファインダは、あの本体サイズでも、知らないもんがいきなり覗けるほどアイポイントはフリーじゃないよ)、ゾンビ映画を撮る監督が「撮ってるものと現実がつながっているような」と口走る。こいつらの世界は死者の世界で、そこから上の世界に召還されていったのが桐島ということなのだ。いや、下の世界かも知れんけど、そこはこの映画の問題ではない。
この桐島が、上の世界でどうなるかは分からない。自分の意志で飛び越えたとして一からやり直すなら、この世界はかぎりない螺旋で出来ていることになるだろう。

自覚的に無理なく手に入るものにはありがたみはないといっても、位相をかえるのがすばらしいかというとまた別の問題。いる場所でできることをするのも、大乗では「悟り」ではありませんでしたか。こうして、野球部員はたぶん野球に戻っていくだろう。でも、そうしないのもありだなと、今更ながらに思わされる。ひとつ上からの視点を観客は獲得するのである。

ちょっと格好つけすぎかもしれない。「自分探しの旅に出たローカルヒーローと、残されて戸惑い焦がれて泣き狂う凡人たち」でも十分面白く見られます。生まれて初めて遅刻しそうになって、言い訳探してるうちに引きこもってしまったとか(笑 桐島がどうなったかうろうろしているうちに、みな、自分がどうしたいのか問いかけ始める。

それにしても映画中の下手アマチュアゾンビ映画というと「super8」そのもので、8ミリフィルムカメラを振り回すモジャ眼鏡カントクとでっぷり助手が庵野氏と岡田氏を髣髴とさせるあたりも笑ってしまうのだが、そしてその異様に典型的な実在の2人のバックグラウンドは特撮変身テレビ番組とヤマトだったのに時代が違うとゾンビだとか余分な話なのだが、ロメロのつくりあげた「living-dead」設定って、ほんといろんなとこに使いやすいし、影響された人も多いのね。コミックでも、川原泉はゾンビ映画好き女子高生でネタをひとつ作ったし、花沢健吾も、福満しげゆきも、もろにゾンビもの連載中だわ。

高校生という、単純化極端化できる状況設定であるからこの映画は一般性を持ちえたと思う。これは「思い出の高校生活」でもなんでもない。シチュエーションは大きな変形もなく容易にその後の人生での出来事に転化できる。でも、もっと年長者の生活空間で舞台をつくると、ややこしく生々しくなりすぎるものな。個別性が際立ってしまうのだ。悪いとはいわんが。
ほとんどの日本人が経験する、閉ざされて、極端な感情露出も可能で、エッチな要素も引き込める空間。なにがあっても卒業すればゲームオーバー、新規まき直し。高校が、ある極限的な舞台として使いやすいのはよくわかる。

で、いまどきのアニメも高校生が素材ばっかでええかげんうんざりするのだが、高校という設定であれば逆になんでもできるのであれば(戦車道ってなんなんだよ(笑、、)、いろいろな物語世界を作り上げるのに制約として悪くないのかもしれない。日活ポルノが、エロ描写さえあればいいという制約で、そのあとにつながる映画制作をし続けたように。結構危機的な状況なのかねアニメ。これもまた、制約の中で奇形的に進化するパターンか。

みなみ会館には、「カウボーイビバップ劇場版」以来で、10年以上ぶりでした。早い時間には古い映画をちょこちょこやってる。フェイルム国内上映権とか著作権とかをかいくぐったらあーゆーことになるんだろうな、大変だなと勝手に思ったんですがそうなのか?

いった店 みよし 大阪 ほか 寺町電気街の終焉2013/01/09 15:29

「三好魚翅店」 大阪新世界 中華
通天閣近くで、名前からしてフカヒレが売りのようなので、フカヒレあんかけ松茸入りラーメン食った。ラーメンにするなら松茸あってもいいか、、、あんかけチャーハンもいちど食ってみたい。味付けは濃くて、舌に残る。餃子がでかい。




餃子など一品の評判を10年前にきいていたのですが、この正月にやっと来る機会あり。いつも行く店があいてたらついついそちらに行くので。

「うどん博物館」 京都祇園
三条河原町でぽしゃった企画。地図見て写真見てそうだろうと思ったのだが、ずいぶん前に廃業した懐石「蛇の目」の建物を使う。20種ほどメニュに並ぶ各地のうどんを1階で注文すると、2階などにある食事空間、和室だが床は張って土足、に持ってきてくれる。




中庭も残っており、かっての料亭の雰囲気が感じられなくもない。仕切り取っ払うと、狭いんだね、とかw




入り口や通路に、うどんの例として各地の道の駅に売ってそうなみやげ物のうどんが並べてある。こいつらをまんま調理して持ってきてるんじゃないんだろうか。このたくさんの種類を打ち分けておいてあるとも、その場で打ったとも思えんかった。具にしたって作り分けられてるのか?。大なべの前に若い調理人の並ぶ厨房のオペレーションはファミレスのものなんだろうし、ウエイターウエイトレスは黒服っぽい。なにを突っ込む気にもなれない。ちょっと小サイズで食えるのは、ましな部分だが、実はそんなに安いわけでもない。いろいろ食い比べて楽しめる人は、尊敬に値すると思う。
この世には、似たようなコンセプトに「インスタントラーメン食堂」というていのものがあって、いろんなインスタントラーメンを食えるのだが、どこでも食える商品から地域限定まであるインスタントラーメンは、また、高度成長期にひろまった子供の好物であり、ひろい日本人が共通体験としてもっているから楽しいのである。
唯一の希望は外国人ツアー客でしょう。まあがんばってください。

「たつみ」 京都裏寺 居酒屋
経営母体がかわってやってる連中が若くなろうが、客が集まるので献立も雰囲気も変わらない限り、おっさんたちはかわらず集まって酔ってくだを巻く。3人隣では地元発某外食チェーン創業者はもともと金貸しで、取立て係の子分らに支店をやらせて広げたのが拡がるきっかけとか、そいつにのっかってAビールはKビールよりシェアを拡げたとか、大声で言ってた。


話はかわるが、寺町の「高橋電気」ついに、昨年末、仏光寺富小路に引越し。
安売りで知られていたが、近所にほかの電気屋がなくなってはもうどうにもならないそうだ。
寺町が電気屋街だったころ、タニヤマ、ニノミヤ、ナカガワ、ものによってはヒエン堂などで値段をチェックして、最後に高橋で値切るというパターンがあったものだ。
いまは、値段はネットで見られるし、実際に見比べるならちょっと離れた郊外型大型電気店かヨドバシにいくのがいい。でかい場所がとれるからおいてる種類も多い。
歩いて、見比べ、交渉して、ものによっては配達してもらう、というパターンが、完全に終焉した。
最後の高橋電気が転出したあと、ふとみると、照明屋も、電気関係小物の店も、オーディオ趣味的な店も、もうない。大きい店に来てついでに、ということがなければ、周辺商品の店ももたない。ドスパラとTwoTopも、いつまであるだろう。
どんどんマンションになっている。いまいちばんカタいそうだ。高島屋と阪急駅のすぐそば、街中で便利だしなあ。

いまさら家畜集団のトップなんてやってられんわけで2013/01/09 16:24

体罰受けたキャプテンが自殺したというニュース。

http://www.chunichi.co.jp/s/article/2013010901000722.html
自殺の主将に体罰集中か 大阪・桜宮高、「よりきつく怒られる」
2013年1月9日 11時08分

群れとして家畜になるような動物には、リーダーがいる社会構造を持つという共通点がある。人間は、そのリーダーをコントロールする。すると、その群れ全体をコントロールできるのである。牛馬羊山羊はそうやって家畜化された。数匹単位でしか群れない鹿は無理だったりする。
日本の社会は、縦型の構造を持っていて、同胞中で家族でいうと長男がトップをさせられる。こういう構造は韓国のほか、ドイツ北欧に特徴的であって、これは日本人には感覚的にはわからないのだが、アングロサクソンやドイツ北欧以外の大半のヨーロッパ、さらにアジアのほとんどでは兄弟間にそこまで区別がない。
「家」単位でこれは行われる。その「家」を存続させるために、長子の扱いが重要で、出来が悪かったらよそに出されたりする。残った次男や、婿をとる長女が、そのかわりになるのであって、すくなくとも同一空間内での上下関係は存続するのです。

高校などの運動部のコーチも、いままでは、しごきと称して体罰を与え、しかもそのターゲットは、群れを統括するために、キャプテン相当になることが多かったと思う。
キャプテンは、リーダーの資質としてそれに耐えて、同胞を率いなければならないのです。

で、思うのですが、日本の社会から、この、縦型関係がなくなりつつあるように思う。社会構造的には、相続制度が兄弟平等になったことが最大に大きい。日教組的な教育もあるだろう。日教組のバックの社会主義はいうまでもなく中国やロシア的な集団平等主義と相性が良い。
人間関係をコントロールするキーでなくなった「同胞中のトップ格」をひたすらしごいても、これはもういじめにしかならない。
なりたくもない立場に立ち、きつくあたられても他の連中にはまったく効果が及ばないから、悪循環でさらにきつくあたられる。
そりゃ死にたくもなるだろう。

ここで「体罰の是非」とかはじめる気はない。体罰を正当化するのは愛ではないにしても、そこにいるのはそれなりにやる気のある人なんだから、不快な目で従わせるのは「禁止」のフェーズのはずである。よい効果のない体罰は無意味だし、正当性を信じているだけにただの暴力よりたちがわるいとは思う。そして、無効となった方法論しかもたないコーチは、無用だから雇用を継続する意味もない。
有効性の検証は実地でしか行われないから、問題が起こるまでは「チームに成果が出るなら、ひいては本人のためになる」と、コーチ自身も教育組織も、親も信じていただろう。ことがおこってから、逃げ場所になれなかった親が「どうしてくれる」といってもねえ。これはコーチのやりすぎの免罪符にはならんけど。以上余分。

「家」という疑似人格を存続させる理由が、ほとんどの日本人には、なくなりつつある。この存続のために、同胞間で順位を作る必要もなくなりつつあるのである。
縦型人間関係の資質は、共同作業する技術者集団に向いている。日本がここまでやってきたのはこういう部分に強かったからで、この部分がなくなったら、ただの清潔好きでひたすら安全志向のへんな民族でしかなくなってしまうだろう。

家とか、縦型とかがなくなっていったあとの家族はどうなるか。
たとえばナースで言うと、離婚のハードルが非常に低くなっているように感じる。生活に困らないからである。政府としてはおそらく主婦を労働力として動員する方向に持って行きたいのだろうと思うのだが、共稼ぎが増えたら、離婚は増えるだろう。離婚後子連れ女性が実家に帰って、というパターンも最近非常に多い。夫は、子供を作るためだけにいたと公言されたバツイチ知人もいた。
これは、実は新しくない。源氏物語を読めば、すくなくとも彼らの社会が、妻の家に夫が入って子供を作る「母系社会」だったことがわかる。
いまも、東南アジアではそうだ。
ある階層の男に、「マスオさん」が増えていくのだろう。もちろん縦型構造も完全にはなくならないだろうし、相続制度も3代以上続けば完全な横一列の感覚を持つにいたった連中もいるだろう。
人口が極端に増減し、富の生産蓄積構造が完全にかわってしまったいま、戦前までの社会性を持った人間で成り立った高度成長期までの日本を再現するのは不可能だ。

日本の「売り」は失われてしまった。むかしの日本についていくら語っても、今後の日本を読むことはできない。
そして、今後の日本の基本になる社会構造があらたに形成されるのがいつなのか、どんな制度に着陸するのか、私にはさっぱりわかりません。
長子相続だったブルゴーニュ地方に、コルシカ出身のナポレオンは平等相続を強いた。あのあたりがその後どうなったか知れば参考になりそうには思うのですが。

いった店 京都と博多 学会も2013/01/26 22:29

「鮨割烹 有吉」 寿司 京都
祇園、四条から上る細い路地にあり、食べログにはのってない。グルナビにはあるが口コミなし。15Kのお任せでされてるようです。しっかりした単品がいろいろ出た上で、〆にお好きな寿司をどうぞ注文してください、という流れ。寿司飯は甘めで、量は少なく、ネタにちょっと添えた感じで、重くないのがいい。恰幅のいいご主人は愛想もよいです。同行者との会話がメインでいろいろ考えるのが面倒な向きにいいし、そういう狙いでしょう。

ガイシュツ
「ローラン」 シェイカー使われないのだが腕がしんどいんだろうかね。大変やな。

学会で博多。来年からこの眼科手術学会もどうなるか分からんということらしい。これに限らずいろいろ地殻変動があるようですが、根底にあるのが人間の相性のように見えるのがなんともへぼいというか、気のせいなんだろうけどね。お友達グループ化が目立つようにも思うがこれも昔からかw 学会勉強会があれこれ立ってなんともならない状況は、田舎病院を整理できない状況を思い出させますな。
システムが駄目なときはぜんぶやりなおすしかないのだが、それを、システムをうまく運用できない口実にしてはいけないと思う。機体がコントロールできないからって機長が機体をコントロールできない理由を得々と機内放送で解説してあとは無線で無駄話してるんじゃどうしようもない、それならはじめから操縦桿なんか握らないがいい。

「稚加栄」 和食 博多
カウンタで囲んだまんなかにでかい生簀のある面白いつくりの料亭。昼の定食、1.5K ほどでかなりボリュームあるが、油断してイカ生け造り頼んだらそっちが一人前2Kでびっくりした。おいしいとはいえ。

「山下ワイン食道」 イタリアン 博多
料理もサーブもなかなかしっかりしてる。数人でいって、時間がなかったのでアラカルトでひとり2.5皿相当にワインデキャンタで、ひとりあたま6K程度だった。品書きは充実しており、繁盛してるいい店と思うが、観光客が博多っぽさを求めてここにくるかというと、そうではないわな。こういう店は都会じゃないと成立しない。近所にあったらうれしいと思う。
↓の写真、意味ないですなこれ。おもてから一通の道を入って2階、ちょっとわかりにくかった。