Facebook に Twitter2012/01/14 23:35

日本というのは縦型の文化を持っている。人間の上下関係を前提にしているということで、長男とその嫁(長女とその婿でもあり)が相続上優先される家族システムが背景にあるとトッドは指摘している。

「家族か家来か敵しかいない」と揶揄される政治家がいたが、これはたぶん日本人の人間関係の原風景なのでしょう。家族には家族同然の他人も含むにしても、是々非々の他人、がないのです。だから「ライバルに友情を感じる」ような基地害みたいな現象が起こるわけで。

で、 Facebook ですが、もともと同窓会の名簿管理から始まったというのだが、非常にアングロサクソン的なものを感じるのでしてね。

個人主義というか。アメリカにいたころ研究室のボスでもファーストネームで呼んでいた。そんな現象面は表面的なもので、役職上の上下からくる損得はあるのでイーブンに付き合ってるふりしてものすごく気を使うのだがそれはさておき。
Facebook は「バーチャル」ではない。現実世界をそのままネットにフラットにひろげていくものだ。
アングロサクソン的個人主義や、イスラムー中国ーロシアといった共同体主義で個人同士はイーブンという社会では、各個人にとってひじょうにいいものだと思うのである。後者だと反共同体的に動いたするんですがね、報道のごとく。
しかし、、、、日本のような社会だと、しがらみまで過分にネットに持ち込むことになるという感覚の個人は多いだろう。
こういう社会では「匿名化」するしか、イーブン化する方法はない。いまだに2ちゃんねるが通用し、実名化をほぼ断念した mixi がそこそこ通用するのはそのせいだろう。

どこぞの教授が、同窓会の組織の連絡網に Facebook を利用してはどうかと発言し、それに大学院生が「イイネ」と反応していたそうな。
発想そのものは正しい。日本でなければ、です。日本の「医局組織」でああいうものをうれしがるのは、どいつをみても自分より下の「教授」か、いちばん下っ端の「院生」なのだ。あいだのものたちは、ネットでまで上下関係にからめとられちゃたまらんと思っているようだが、教授から手当たり次第に友達申請が来て同門会の医師たちはなかなか戸惑ってる模様ときく。大変だねえ。

で、 Twitter というものもある。

知人に向けてるふりしてちょっと思わせぶりなことを書いて、いろんな人から「イイネ」といわれたいという、無名人のびみょーな自己顕示欲はわかるのである。
逆効果として、ききたくもないつぶやきを垂れ流されてもたまらんのにフォロワーにならないわけにいかない、という人間関係が、縦型社会ではひじょうにうざい。だから近づかないという選択肢はあるだろう。気のあう内輪でちまちまやるだけではすまない。
理解できない人がいるようで、文筆関係の同業者同士の横のつながり程度でやってる人が、 Twitter に上記の理由で近寄らない知人を誘って断られ、あんたみたいな地位もあってエライ人はこれからもがんばってくれ的に半切れでぼろくそにいったそうな。
現状じゃ、有名人にみながぶらさがる形式ばかり目立つ。無用なやらせも多い。「馬鹿発見器」というが、馬鹿のふりしてるやつに突っ込む馬鹿、という図式も出てきて、情報の信頼性も何もない。いや、そもそもこれは信頼のためのもんではない。共有範囲が広ければノイズが増えるのは知れたことで、実用としての有効性を強調するのはやめろよマスメディアも。

広場のすみっこで世間話しているよろしく広大なネットのあっちこっちでごそごそやりとりしてる、という程度のものが、あるときいきなり取り上げられて炎上するような剣呑なものですからね。エシュロンてのもある。集計解析すれば大衆支配の道具にはもってこいであってそれが狙いかといいたくなる。

上下関係という前提があれば、相手個人の特性の把握は不要になる気がしてしまうのが縦型社会です。「立場を演じればいい」という舐めた事をいった若手教授がいたような気がする。さすが、利用価値がないと見るや口も利かなくなるだけのことはある。過大なお役目意識ご苦労様というしかない。
となると、世間話の垂れ流しなんて、そこまでやりたいものだろうかと思う向きもあろう。
Facebook や Twitter の距離感は縦社会のものではないのだ。

つねに「立場」のなかで上と下を見ながらうろうろする日本人は、実名主義のネットでも、上下関係にからめとられるか、見かけ上イーブンな環境にうわずって力加減がわからずこける。こけたらみんな容赦はしない,
なんせ現実世界と地続き(笑
敗者復活戦の難しい日本で、ヘマ打つ場所を増やすだけの実名制オープン SNS が、組織の中堅、いわゆる「中間層」にまともに広く普及するかな。そんな層減る一方かもしれんけど。
前述文筆業者もふくめて団栗規模の自営業者たちなら使いやすかろうとは思う。開業医も本来そうなんだけどねえ。

「個室」をつくらないと、大切な話はできないし、 Facebook も Twitter もそういう話をするべき場所ではないのだろう。
ま、今度はどういうボーダーをつくっていくか、かもしれませんが、趣旨とは外れますねえ。

それでも普及するならどういう形になるだろうという興味はあります。なににしても私の予測はたいがい外れるので。

バー 四条烏丸かいわい2012/01/15 00:04

四条烏丸北西あたりにじわじわ店が増えているもよう。
「重兵衛」で年末食事してたら、ちょっと知った人がこられた。
京都中の飲み屋を知ってる人で、「パトロール」で巡回してるそうな。この辺の店も詳しいそうなので教えていただいた。

「Bar 52」 「瓢亭MARU」の上。
それなりに若手のでも恰幅のある男性、スマートな女性の2人のバーテンのバー。小路に面した窓に背を向けて座るていの長いカウンタがいい。いい感じの店です。そんなに高くもないし。

「ワインバー MUSEE」 「Bar 52」 の西の3階
ソムリエ一人にはキャパが大きいような気はするが、まともな店です。カウンタの向こうの窓、ビルのおもてがわに小庭がライトアップされてみえるつくり。竹塀でさえぎられてむこうのビルまでは見えない。京都の町家のせせこましい小庭の感じは、しなくはないね。
ワインリストのかわりに、ワイン庫を硝子越しに覗き込むようになってる。そちらはちゃんと選べる人が飲むもんだろう。
その日のワインとしてグラス1K台でいくつか選べる。4人6グラス3皿でひとり 3.3K 程度になった。
別用で以前このフロアにちょっと寄った際にこのワインバーにきれいなおねーちゃんが2人入っていって、そうかそういう店も出来たかと一瞬勘違いしていた。

このあたり、いい感じに店は出来てきてるけど、いかがわしさが足りないし、いかがわしい店が出来ない限りは「生きた盛り場」にはならんだろーなーとは思います。あるという噂もあるんだけどね、、、、

「カッパドキア」 トルコ料理 四条寺町
家内とランチ。姉妹店「イスタンブールサライ」が休みだったのでこちらへ。ランチはあまりヨーグルトっぽくないメニュだけどおいしい。ただ、、ラキは生のまま持って来ておくれ。

ガイシュツ
「トスカーナの食卓」 京都伏見 ナポリピザは生地がごく薄く、北イタリア風として一貫はしてる。これには、タバスコがついてきたw
「アシュクルク」 京都川端今出川 「重兵衛」からこっちに流れきて知り合ったお客さんの男女が結婚したという話をきいた。なんだか詳細不明。京都は狭いのだねそれにしても。

満寿一専務がなくなったこと2012/01/21 19:29

静岡、満寿一の酒は、最近コンスタントに買っていた。
以前ブログにも書きました。
http://inakameishi.asablo.jp/blog/2009/11/27/4723899

ところがその、唯一の杜氏である専務がなくなったとトミナガさんできいて愕然。

あらためてぐぐって見たが明らかに書いてるのはこれくらい。
http://osake.eshizuoka.jp/e832262.html

おおむかしお会いしたときは、大塚杜氏の時代で、まったくの営業の感じだったのです。杜氏されるようになってずいぶんかわられたときいていた。
あれこれ詳細は書きませんが、満寿一、なくならんでほしいと切に願う。

うちの冷蔵庫にずっとおいてある大塚杜氏の純米吟醸を、トミナガさんとこで、専務の酒といっしょにいつか飲みたいと勝手に思っていたんですが、それも儚くなってしまいました。

大塚さんはまだ存命で、志太杜氏免状を持つひとはほかにもいるとはいうのですが、どうなることか。

診断書のための検査など どこまで医者のせいか2012/01/29 21:30

竹の杖のご年配がやってきて、身体障害と障害年金の診断書が欲しいといわれる。
片目は剥離の術後で失明。たしかにちいさく固まった瞳孔がうしろのぼこぼこに白くなった水晶体にへばりついていて、終わっている。で、もう片目も視力は0.1以下、黄斑変性だったという。

ここまではべつにおかしくないのですが、診断書書くなら最低、視野検査と眼底検査はいる。
「前にその検査したら悪くなった。悪くならないだろうな」というのですね。

普通に考えたら、悪くなるような目を検査した、そのタイミングで悪化したのだろうが、検査したせいで悪くなったと本人は思っているのだろう。そう思いたいのだろう。

申し訳ないが、うちで検査してそのあと悪くなったといわれたんじゃたまらないので、「ふつうは検査で悪くならないと思うが、その保証はありません。保証しろといわれたらなにもできませんし、そうなると診断書も書けないのですがどうしますか」ときいたら、「考える」といって憮然と帰っていった。

たぶんうちがはじめてじゃなく、あちこちにいってはそういって帰されてるのだろう。

医者のせいにされても困る、というものはある。

10年ほど前の話。
知人が大学にいたころ、落屑症候群の白内障のひとがやってきた。この病気はチン小帯がゆるいことがあるのだがまったくそれで、ちょっと苦労して眼内レンズを入れた。10分ほどよぶんに時間もかかったがなんとか仕上げて、われながらようやったとおもったそうな。
ところが、角膜内皮がもたなかったのですねえ。これはふつうにありうる合併症で、ほかの医師がしたっておこり得るし、それどころか核落下で硝子体手術することになったっておかしくなかったのだが、患者はそうは思わない。
10年前であるから、まだ「かわいそうに」と医者が思って、「あなたの眼がそういう性質です」と言わない時代だったのだ。「ちゃんと面倒みます」といって、けっきょく角膜専門家による角膜移植を、研究費でつまり患者負担無しで受けられるように手配した。
その後彼は大学も出て、離れた病院にいた。この件は教訓にしていて、白内障手術の説明も相当きびしいものにしているそうな。

ところが10年たってその患者が大学に手紙を寄越したそうな。角膜移植のあといろいろあって結局失明した、面倒みるといったのに手紙も寄越さない、あの医者に手術されなきゃよかったと。

私はきいた。「、、、それ60-70台くらいの男の人じゃない?」
手術はすべてうまくいくと思い込んで異論を認めないのが、そのあたり、ある程度社会的地位を経てきたじいさんの典型症状だ。はたして、然り。

角膜内皮障害による胞状角膜症は、全層角膜移植しても予後がそれほどよくない。最近では DSAEK がでてきて事情はかわりましたが10年前じゃ移植後も半数近くが再発しても変ではない。
しかし失明は尋常ではない。緑内障専門家に受診したことも書かれていたようなので、ステロイド使用もあったろうし、落屑緑内障をこじらせたと考えるほうが妥当でしょうが、なににしてもこれは「目の性質」なのである。
最初の手術がトリガーになった、あれさえなければとずっと考えておられるのだろう。悪いがこうなると、近寄るのがもう危険である。

嫌な時代だが、なにをやるときもリスクはきつめに申し渡し、すこしでも理解が悪ければ手を出さないのが鉄則になった。
これ、いらないことをされずにすむ患者より、するべきことができない患者のほうが多いような気がするのです。医者のやりたい放題は論外だが、患者にとっても決していいことではないと思うのだが。

お店 ビストロ山形 Bar 織籠 ほか 京都2012/01/29 22:04

四条烏丸かいわいです。

「ビストロ山形」
ちょっと奥まったところにある。洋食やってるフレンチつーのか。なかなかおいしいのですが、焼酎やら鮒鮨やらだしてきたりと変化球も多い。京都北部のジビエにもこだわりがあるもよう。
ワインボトルはあけず、勧められるものを面白がって飲み食いしてたらふつうにひとり10Kいきました。
カウンタでいくと、はじめご主人が様子をうかがってる感じがする(あたりまえだが)けど、馴染めば面白い店なのだろうと思います。

「Bar 織籠」
女性バーテンがやってて、ギムレットがなかった。高くはありません。

ほか、、、、

「ラ-トゥール」 フレンチ 京大本部
洋定食の「まどい」がすごいことになったもんやと思う。「ルヴェソンヴェール」関係、社員は京都東京で100人以上とか。
噂では、文科省のえらい委員になったもと教授の押しで、この時計台の店は家賃払ってないというんだが。ここにこの店があること自体にメリットがあるという大学としての判断であれば文句言う筋合いはないけど、そうなの?

ボランティア活動のスタンスについて2012/01/31 19:25

ボランティア活動というものがある。

欧米だと、僻地医療のために、豪華な帆船に医者を乗せて1-2年かけて世界を回って寄港地でボランティア医療するというプランをみたことがある。眼科でも、豪華な飛行機に眼科医手術設備一式のせて回るというものもある。
賛同する金持ちや企業からのサポートでやるのだろう。ここには「やりたいからやる」「やりやすいようにやる」「いいことなんだからいいだろ」「嫌な思いしてまでやることかよ」という発想しかない。国境なき医師団の態度にしても基本的にはそうである。
自分がその場でやりたいようにやるだけであって、自分らがいなくなったあとその場の医療がどうなろうが知ったこっちゃないのである。実際、たとえばハイチの地震では、ボランティアが入り込んであれこれやったおかげで地元の医療がなりたたなくなったという。後のことを念頭にした利益ベースで考えないから当然だ。
日本人でもこういった心の自由な国際医療ボランティアのベテラン(笑)はちゃんとおられる。「やりたいからやる」「できるからやる」という態度のお金持ちであって、えらいと思う。皮肉ではない。これを「神様目線」と私は呼ぶ。

私もある種の医療ボランティアに行ったことがある。私自身がそういうところでどの程度の腕があるか知りたかったからで、ひとのためにどうしようという殊勝な志があったわけではない。
そこで感じたのであるが、こういうものにかかわる日本人たちには、皆が皆とはいわないがひとつのパターンがあった。手助けしてやれば、そのうち自分でなんとかできるようになるだろう、そのために自分たちはがんばるというのである。ちなみにこの発想は自分らにも向けられる。自分たちの活動を発展させるために、きっちり組織をつくり、若手を育てよう、というやつだ。「上司目線」というのか。

さて、この手の「相手を育てるためにする」上司目線の発想と、上述の世界標準「俺が今やりたいからする」神様目線の発想のどっちがまともかというと、どうなのでしょう。
医療ボランティアを必要とする地域をみたときに「遅れている」「貧乏だ」と同時に思う人は多いだろう。しかしこの2つは違うものである。
「遅れている」ものは、明治後の日本が技術的に西洋に追いついたように、手助けすれば自ら努力しておいかけてくる。手助けも本当はいらないかもしれない。上司目線ボランティアは相手がこのレベルの人間であることを前提にしている。こういう地域は限られていると思う。
世界の大半をしめる、ただの「貧乏」は、手助けしても自助努力を生まない。さらにぶら下がる姿勢を強めるだけだ。
私の経験でいう。現地の医療体制がそこそこできてきて、じゃあ日本人といっしょに地域医療をやろうという姿勢になったかというとそうではない。「日本人がやりたいならボランティアで仕事させてやるし、その手伝いの地元医師にも金出してやってくれよ」ということになっていったのであった。

というわけで、はじめの調子からは意外かもしれませんが、私は、「ボランティアなんて神様目線でやるもんだ」と思っている。

自分のためにしていてなにが楽しいのかという向きもあろう。
だが、たとえひとときでも他人に恩恵を与える力があれば、自分としてはうれしい、というのは、全能感を求める無力な人間としての、とても控えめな喜びである。水がほしいという者に水を飲ませればそいつはとりあえず今日は死なずに済むのである。明日以降のことは別の話だ。今日の分は神様が自分に割り振ったのであって、明日の分はまた神様に考えてもらおう。
医療ボランティアに限らない。
ある状況をとりあえずなんとかしたいと思うなら、やりたいものがその場でできることをまずするのが出発点です。それはその状況をみているのが嫌な自分を救うためにするのであって、人に尽くす自分や指図する自分に酔うためではない。
人のためだの世のためだのあとあとのためになるようにだの、変な理屈はつけないように自覚するだけで、ものごとの風通しはずいぶんよくなるように思う。

「俺自身のためにやってるんだ」という開き直った立場の押し付けボランティアのうざさ鬱陶しさは想像を絶しますが、それは次のステップの話として、ここではおきます。