身の回りの酒2012/08/05 13:26

どうでもいいことですみませんが、40歳台以上の医者と飲むとワインに寄っていく場合が多いように思う。
病院支給のおんぼろ宿舎に住んで、一部屋余分に借りてワイン倉庫に確保してる勤務医の話もきいたことがある。
バブル後、ホテルが手持ち財産を手放す途中で、ずいぶんいろんなおいしいワインを格安に(元の値段やものに比して、でしょうが)手に入れたと、手術で荒稼ぎしていた先生がおっしゃっていた。
どこの業種でも、ある程度以上の立場収入になるとそうなるんでしょうかね。

同じ情熱で焼酎や日本酒、せめてスコッチのモルトの話をしたがる医者はまず見ないのだが、なぜワインに寄ってくのかね。
「専門家として知識を役立て、時に披露する」快感でしょうか。ヴィンテージやら畑やらいいだすと半端ない知識量が必要ですしね。自分のためにする努力なのに人が感心してくれるという受験勉強以来の枠組みから逃れられないのか。

「ワインを飲む」場所が、ビール日本酒蒸留酒とはちょっと違った空間をつくりあげていて、「ワイン好き」というと、そこはかとなく「イタイ」香りがするのも日本でのワイン文化の謎でもある。「スイーツ(笑)」ほどじゃないにしても。
本当かどうか知らない。江川もと巨人投手は、飛行機でファーストクラスに乗って、持込(ボトルの機内持ち込みできたころの話ですねつまり)のワインをあけてCAに「さあ皆さんもどうぞ」といったという。いくら銀座の高級クラブに似ている(らしいのである俺は知らないのだが)といっても、仕事中のCAに酒飲ませたらあかんやろう。

基本知識くらいはもとうと私も去年から月一回の初心者向け(笑)ワインスクールに行ったりするのだが、私自身はむかしから日本酒メインで、それも「幻の銘酒」は嫌いなのです。ほしいときに手に入る酒がいい。
というわけで、静岡赴任のころ山崎酒店で覚えて以来、「磯自慢」の本醸造ばかりだ。ところがこの蔵、知る人ぞ知る感じでどんどん名が売れ洞爺湖サミットでヴィンテージもつかわれ、山崎酒店からでも買いにくくなって困っていた。日常酒のコンセプトからはずれるので、ほかになにかと思っていたのですが、今は京都でも2軒常備している店があってありがたい。
加えて、「満寿一」の純米吟醸が、紆余曲折あったもののこの15年定番であったが、廃業となった。この味は他にはなくて困っている。あとは「不老泉」。時期によって「金鶴しぼりたて」。これらはトミナガさんで買う。

むかし吉田山のふもとに「アンダンテ」という焼き鳥屋があった。きれいなカウンタの小さい店で、非常に口の悪いご店主がやっておられた。
そこで出していた「矢作洋酒」の無添加ワインが好きで、今も取り寄せては飲むのです。こいつもどっちかいうと日本酒に近い味わいのような気がする。かってよく飲んだのですが「鳰竹生島」という滋賀の地酒があって、ちょっと似た甘い味わいだった。私の見る範囲にいつのまにか見なくなった。アンダンテも、とっくに閉められてしまっていたが、最近は娘さんがお昼だけカレーをやってられるようだ。

外で日本食にあわせるなら、おかれているたいがいの日本酒が、ぬる燗にすれば、無難に飲める。
おいしい酒は冷で、というのもよしあしであって、飲みに行くのではなく食いに行くのであれば、飲みやすい冷酒をぐいぐいというのはどうだかと思う。そもそも冷たくて旨ければぬるければやはり旨いし、やわらかくなって過度の自己主張もなくなる。
その酒を飲んだこともあってわかったうえでぬる燗頼んでるのに、「これは冷たくして飲むものだ」と、とんでもないことを求めているようにいわれて、うんざりすることもある。みるからに名の通った「地酒」をいくつも並べてみせる店は、料理に自信ないのかいと思ってしまう。
そこまでいうなら、料理人として、俺の料理はこの酒で食え、というようなものを選んできてほしい。そうじゃなきゃ菊正宗や月桂冠(選択に特に悪い意図はない)のぬる燗で気持ちよく料理を食わせてください。客も客だ。あの有名な酒を置け、とか、え、ないの?とかいちいちいうなよ。

いつもシャンパンという知人がいて、これはこれでいい選択やなあと最近思う次第。シャンパンはヴィンテージなしでもちゃんとしたレベルのものが定番品として手に入る。日本料理をいただくにも悪くない選択です。

なんのかんのと書くが、じつは先月半ばから良性頭位性めまいで、酒飲む気にならない。出先ではジンジャーエールだのお茶だの飲む。
そして、アルコールが入っても入らなくてもあまり気分に違いがないのに気づいてしまいました。γGTPが先月200超えてたんだから、飲まずにすむのはいいことだ。

平和への脳内取引2012/08/05 21:09

夏休みとオリンピックでフェードアウト気味の大津の「いじめ自殺」の件です。今更ですが書いておく。

嫌な話と思う。なぜかというと、日本人に多い、きっちり対応せずにとにかく黙り込んでやり過ごそうとする特質と、一度切れるとかさにかかって限度なくやる特質が、組み合わさって非常によくわかりやすい形に最悪の事態を招いたからです。
ま、新聞報道やせいぜいネット情報からみているので、私の妄想ということですが。

加害者は、半端な社会的強者に属する家庭のものとして(背景に、自治体役職者だの大企業関係者だの果ては暴力団だの列記されている)、いったん表面化したら叩かれること必至の属性を持っているのですが、狭い世界では絶対的な力として、しかもそれをごく一部のものにだけむけてたわけね。
あとあとのアンケートで証言がどんどん出てくるわけだが、そんなに彼らのいじめが知られていてなんで死ぬまで何もできなかったのか、何もしなかったのか。もちろん火の粉が怖いからだ。
自分にこいつらが食いついてきたらどうするのかという想像力は、ないというよりは、ありすぎてしかも「戦い方がわからない」から、無視して逃げるしかない。やり過ごしていればどこかにいくと思ったのである。

どこからもフィードバックのかからないガキの悪乗りで、家も無茶苦茶にしたというのに親は何していたのか。知らなかったはずがない。息子にどういう対応してたかわからんのだが、死んでから被害届出したのは「まさかそこまでとはおもわなかった」ということなのだろう。「我慢してたらそのうちやり過ごせる」と意味もなく思っていたに違いない。
だからって、家庭にも問題がなんていうふざけたセリフもどうかとは思う。家庭がどうだって、死ぬまで追い込むことが正当化できるはずがないだろう。
被害者の親の問題は、いまどきの日本人としてふつうに状況を舐めていたことだけだ。そしてそれは致命的な欠陥となりうるにしても、犯罪の正当化に使ってはいけない。加害者側もおなじ法体系の社会にいるのだからね。

先生以上の立場の連中も、基本は「ほっといたらどっかにいく」と思ってたんじゃないか。そして、ほっとくために自分の立場を使えるのだから、よりたちが悪い。

ものごとが健全に運営されるには、「みなになにをいわれるかわからない」恐怖が必要である。民主主義というのはそういうことだ。逆に言うと民主主義というのは結果を評価する手続きのことであって事前に結果を保証するものではぜんぜんないのであるが、なににしても情報が公開されるのが当然その成立要件になる。でないと歯止めがかからない。
聖域があって情報が遮断されるのが一番いけない。そして、聖域は、思想の問題ではなく立場の問題です。
その聖域を突破して今回情報が漏れて言ったから騒ぎになったのだが、そうなると出るわ出るわで、立場逆転。ま、もともとその程度の力関係だったということです。とことんな立場のやつだとすべて闇だろう。
「教育」という場で「人権教育」からみの担任のもとの「いじめ」、いわば「聖域で、聖職者が問題を認めたくないので見逃されてきた冒涜行為」と解釈するのがいけないのである。ただの犯罪行為ではないか。きっちりコントロールできないことを認めないまま存在も認めずするーしては教育もなにもあるまい。

こういう場合、被害者としては嫌な話だが気長に声を上げるしかない。黙ってやりすごそうとしても、いったん犯罪行為の対象になったら止まらない。やられてるひとが、自分の頭の中に線を引いて「ここまで我慢したんだからそんなにひどいことにはならないんじゃ」という取引を勝手にしたような気になるのはやめたほうがいい。「ここまで我慢したんだからもう許してくれるだろう」とこっちは勝手に思っても「ここまで我慢するなら死ぬまで我慢しろや」にしかならないのだ。
だから、第一歩が重要なのだ。踏まれたら即座に反撃してそれ以上踏ませてはいけない。いちいち騒ぐ困ったチャンになればいいのだ。
ずるずる踏まれているうちにどんどん付けこまれて行って、心理的に後戻りできなくなれば、犯罪者の思う壺である。安全圏からひとを痛めつけるのはさぞかし楽しいことだろう。
ま、反撃しそうもない標的を選ぶからそうなってしまうので、「みんな仲良く」は理想としても、その前提として「無法には物理的にでも反撃しなければやられるよ」という意識が社会的な合意事項になるしかないし、子供を育てるに当たっての親の姿勢でもあるべきなのでしょう。
すでにつけこまれてどうしようもない場合もあろう。戦う体力のあるもんばかりじゃなし、行政だってあてになるもんじゃなし、身動きが取れないのなら、正直に言おうよ。とにかく相手が人間だと思って相手しないこと。逃げてひきこもる方が死ぬよりましでしょ。

そうなるとどうしてもあの憲法のことが頭に浮かぶ。「9条があるから戦争にならずに暮らしている」というのが、脳内取引の最たるものだ。米国人の持ち込んだ条文であって日本人に特有とかいう気はさらさらないが、こういうものが明文化されたことで、生物として生存するにはいろんな弊害があるように思う。
ここのところをを金科玉条にするひとは、たいがい、戦前日本や旧日本軍の行為をあしざまに言うのだが、それをストップさせたのは米軍の武力であり原爆であることを忘れてるんじゃないか。「いい武力」があるというならそれこそ「いい武力」の涵養が重要なのであって(あえて書いているので突っ込み禁止)、武力そのものの否定では自己否定にしかなるまいに。

ありきたりの連想ですが尖閣のことだって、やりすごすつもりで調子に乗せてるんだろ。
トラブル解決に当たって前提として喧嘩を一方的に否定するほどの馬鹿はない。喧嘩せずに済ますには喧嘩も辞さない姿勢が要る。
そんな憲法を聖域扱いする態度に代表される絶対平和主義は、結局こういうちんけなところにオチをつくるのである。