追悼原節子 そして「麦秋」について2015/11/26 19:57

原節子(敬称略)がなくなりました。さいごのほうにでられた映画じゃないが、天の岩戸から出てこなかった感じです。

ビデオで映画を見るというのが80年代後半広がるまでは、映画は映画館でしかみられないもので、テレビでもやるにしても映画館で見るのとは別物で、古いもの、珍しいもの、は、わざわざやってるところをみつけたら都合付けて見に行くもんだった。
小津はビッグネームであるから、ちょこちょこ特集されていた。千日前松竹にオールナイトで4-5作いっぺんにみたことがある。どれもこれも、似たような筋やなあというのがそのころの感想。

当時のマイクに声をひろわせるためにか、喋り方もとにかくはきはき滑舌がよく、怒鳴るだけでなにいってるかわからないいまどきの映画とは別物である。
大学のころの、私の持ちネタは、小津作品での、笠置衆や、原節子の、しゃべりマネであった。
RIP

原節子は、いろいろ映画はあるにしても、小津のいわゆる「春3部作」によって世界の映画史に残ったといえる。「晩春」「麦秋」「東京物語」ですね。
この3部作で、原節子のカウンターパートとなった笠置衆は、キャリアのはじめから老け役だったと揶揄されることが多い。原節子とは親子の世代をやったりするイメージで、この3部作でも、「晩春」では実父、「東京物語」では亡夫の父、というのはそのままですが、「麦秋」においてだけは、兄妹になっている。この2人の関係が映画の軸になっていると考えねば、「麦秋」のみで笠置衆が兄役をやった説明が出来ない。

そこからいろいろ考えて、むかし、「麦秋」についてこんな文を書いた。かなり前です。紋切りな表現がいっぱいあって恥ずかしいねえw
おもえばちょっとメンヘルっぽい女性と知り合う機会があって、こんなことを考えてしまったというところ。ピントはずれというなら許してください。似たようなことをいってる人がいたらごめん。
オリジナルサイトを明示しない引用は禁じますww

ネタばれしますが、そもそも、「麦秋」みた方じゃないとこれわかりませんからね、あらかじめお断りしておきます。「麦秋」は、見る価値ありますよ。デジタル修復されるんでしょうね、これも。


「麦秋」論 ~架空の家族考証

小津安二郎の映画「麦秋」に関しては従来より、大家族制の崩壊と核家族への移行をテーマにしたものとされてきた。
確かにそれは正しいであろう。というよりは、起こっていることは正確にそれらのテーマをなぞっている。
にもかかわらず、原節子の演じる紀子のありようの異様さはどうであろう。この映画において、家族の離散は決して社会情勢等から不可避に導き出されるものではない。あくまでも紀子一人の異様な行動から引き起こされるのである。
みんな、原節子の美しさに騙されて気がつかないだけなのだ。

よく見てみれば回答はすべて映画の中にある。
まず専務。彼女の上司であるこの恐ろしく口の、そして多分性格も悪い専務の事を、紀子はどう思っているのか。この専務は、仕事ができる、若い、格好がいい、男っぽい、と、映画のある種のヒーローたるべき条件をあざといまでに全て備えて登場する。紀子の友人の母の料亭で、専務が居ることを知ったときの紀子のはしゃぎ方は、只の部下の反応とは思えない。にもかかわらず専務の眼の前での見せつけるような事務的な態度と優秀さは、紀子が心中、既婚者である(このことは終わり近くで明らかにされるがもちろん登場人物は知っているはずだ)この専務に恋しているとは言えないまでも、慕っている事を確信させる。兄に対する生意気さと裏腹に、彼女は専務にはあくまでも従順である。そして自分の地位に安住している。
だからこそ縁談を専務が持ってくること自体に彼女はショックを受けるのだ。

一方で彼女に戦死したであろう兄が居たことを我々はやがて知る。この亡兄に対するありようも異様である。亡兄からの、自分のところにきたわけでもない手紙を欲しがるという行為も逸脱しているし、その手紙をくれようという亡兄の友人でやはり戦争帰りの男(つまり出来の悪いコピー)と、その後ころころと結婚に転がり込んで行くことを思うと、公式的には戦死の確認されていない亡兄に恋に近い気持ちをもっていたことは明らかで、今も持ち続けている、というより、中途半端な状態ではその気持ちが正常な形に修正されようがないのある。

こういう精神構造の持ち主に「恋愛」が出来るだろうか。不可能だ。
だから健吉は格好よくあってはいけないのである。
健吉の描かれ方の悲惨さはどうだろう。紀子の家族からはついに健吉を「立てる」声はきかれない。紀子の結婚が家族離散の契機にになるとはいえ健吉が相手で無くとも起こり得ることではあるし、大家族をそのまま維持できる相手を見つける方が難しいかも知れない。にもかかわらず、最後の夕食に至るまで紀子の家族の健吉に対する無視は徹底している。彼はあくまでもあまり有能とは言えない医者、人のよい小市民である。ヒロインの恋の相手ではない。
だがそれをいちばん自覚しているのは健吉自身である。彼は紀子との結婚を考えたこともないし秋田に行くのも「自分にはいい口だ」と納得してしまっている。二・三年で東京に戻れると、本人を含む誰も信じてはいまい。
母から、紀子が結婚してくれると聞いたとき、彼は戸惑い、状況の異様さを直感して逃げたい程だったのではないか。ここで彼の、狂言回しとしての物語は終わるのだ。そしてこの後映画に登場することはない。

健吉の上司でもある紀子のもう一人の兄周吉(笠置衆)は、最初から、大家族の主宰者であり紀子と対立する存在として登場する。「エチケット」に関する紀子と兄の徹底した反目をみれば、紀子の心中でこの兄が敵に近いとらえ方をされていることがわかる。医者・家長であった故に出征せずに済み、鎌倉住いであったため結果的に焼け出されることもなく、「戦前」をおそらく半ば肯定的に感じているであろう兄に、その戦争で愛するもう一人の兄を見失なった紀子が感情移入できるわけが無いのである。老父母をいだいて兄中心に大家族制の威信が面目上維持されてきた家族の中で、紀子は完全な異分子である。ところがその異分子にこの大家族はその豊かさを半ば負っているわけで(というかそのためだけに存在が認められているのだが)、しかも紀子の実質的な重要性にも拘らず、例えば父母にとって、幸せだ幸せだと言いながら風船を見て思い出すのはあくまでも兄の幼い頃である。

だから、この結婚に周囲が反対すればするほど彼女は突っ張るのである。
無理矢理兄が潰そうとすれば潰れたに違いない。しかし、兄がそういう事をする性格の持ち主でないことは紀子自身が既に「そういうひとよ」と宣言してしまっている。更に、専務のもってきた縁談に対する応対からして兄自身反対する口実が無い。その上、老父母を大和へ追い返しさえすれば経済的な問題も何とかなってしまう(彼の口ぶりは、追い返さなければならない立場を嫌がっているだけで、追い返すこと自体に抵抗があるとは思えない)。下らない男を相手に無断で、つまり、面子を潰された、のが唯一の問題になる。

老父母は紀子とその兄に養われている被庇護者である。三世代同居の一見大家族制に似た状況だが実は、老父母はもともと戦争前後の一時的な避難として紀子を連れて息子の家に転がり込んだ居候であり、かってはなんらかの収入もあったろうが(未だ売文はしているらしい)今となっては、紀子の存在のみにその正当性を得ているだけの、いつかは帰るべき存在なのだ。大和のおじいちゃんというのはその預言の為やってきたのである。だからこの結婚を聞かされたときの母のやつれかた(時間として数分の事であり場所も同じであるにも拘らずライティングの変化ですごい影が顔に出来る)や、踏切の前に座り込む父の姿は、決定的な通告を受けたときの絶望した人間の姿を描いてすさまじい。

しかしそうしてまで結婚する相手の家庭では、より貧困であろうが、「大家族制の崩壊」などは起こり得ない。健吉は、例えば母との別居など考えもしまい。彼の生活は戦前の小津による「長屋物」におけるそれに近い。紀子の家庭と対照的であって、高価なおもちゃやショートケーキをあっさり買い入れる紀子の家庭に上がり込み、そのショートケーキの追加を臆面もなく欲しがる健吉は笑いを誘う。だが、謙吉はそんな風な貧乏生活も、母と別居してまで改善しようとはしまい。また、彼の母もそれを受け入れはしないだろう。逆に、紀子の家庭で、紀子の去った後老父母を大和に帰さなければ生活がどうにも成り立たないとは思えない。老父母が紀子とともにやってきたとき紀子はほんの女学生と語られており、少なくとも彼女のかせぐような収入はなかったはずで、しかも終戦前後である。そのころに比べ生活は格段に-少なくとももんぺをはかなくてもいいほどに-楽になっており、そこへ、兄の子を差し引くと就学前の子供が一人増えているに過ぎない。

紀子が、悲惨な状態に飛び込んでみせることで自らの属していた「大家族」の嘘を暴き、崩壊させる。これは、身を呈した復讐でなくて何であるか。その時健吉を選んだのは、健吉が、紀子にとって最も結婚を、男を感じさせない人間であったからに他ならない。健吉の家族に対し、紀子は嫁、もしくは義母として侵入する。だが、妻になるという認識は出来ただろうか。実際最後の最後まで、紀子は、自分が結婚するとは思ってはいなかったのではないか。

その後の紀子の行き方は、だから、周囲を傷つけた事に対する正当化に終始する。また周囲もそれを手伝うことになる。お互いに自分を納得させたいのである。
まず砂浜での兄嫁との会話。小津にしては珍しくクレーンを用いたことで有名なこのシーンはしかし極めて薄気味悪い。一体このシーンに通してみられる会話の不自然さ、胡散臭さをどう考えればよいか。自分の結婚を後付けの理屈で正当化しようとする紀子と、それを額面通り受け入れて名目だけでも大家族、もっと言えば兄の威信を維持しようとする兄嫁との八百長的戦いと考えるしかないではないか。そのうえ、今後の紀子の生活の「いろんなこと」の不安を兄嫁は只強調するだけである。兄夫婦とその子達の金銭に関する敏感さはもっと注目されるべきだ。紀子は「なんとかなる」「そんなに苦にならない」つまり、経済的負担はかけない、と繰り返さざるを得ない。思えば、家族と紀子のつながりはこれだけだったのか。兄嫁の「安心した」という台詞で、紀子は切り離されるのである。

友人である料亭の娘との会話にも紀子が自分を納得させようとする有様はみられる。健吉の何処がいいのか答えられないのは、単に、何処がいいとも思っていないだけの話だ。「惚れてるのよ」と解釈したい友人に、しかし紀子は諾かない。男として認識できない相手に惚れようが無いからである。こうしてこの病的に不幸な娘は、自分の属したかも知れない社会を、家庭の主宰者を、最後にこの友人に手を引かれて無理矢理垣間見させられることになる。そのとき後悔はなかったか。しかも、その独身の友人は、紀子の結婚することの無かった「条件の良い」相手に会ってみたかったのだと思えば、この展開も無惨である。

さらに、それより前、紀子が専務に挨拶に行ったとき、専務は、「俺ならどうだい、もっと若くて、独身なら」と、たとえ冗談としてでも言っているのだ。この時紀子の顔はうつしだされない。しかし、だからこそ見ているものは、おそらく全く変わらない彼女の笑顔と、醜く歪む彼女の心をたやすく想像できる。もしこの台詞が最初にきていたら、紀子はきっと専務の見合いにのって結婚してしまっていたであろう。

かくして最後の別れの夕食に映画は突入する。既に決着はついている。紀子の反抗は周囲の対応で完全に無力化された。確かに家族は離散する。老父母が紀子と同時に切り捨てられるわけで、実質的には、三人のくる前の状態に戻るだけだ。しかし紀子の憎んだ、老父母を背景にした兄の威信は、名目上は、完全に維持され、そのままひそかに人々は兄とその子供を中心とした新秩序に移行する(子供達の傍若無人なこと!)。であれば、紀子の反抗は何だったのか。

この時の兄の「紀子もこの家にきたときはまだお人形のようで」という台詞は象徴的だ。
家族は紀子を畢竟一個の人格として認めてはいなかったのではないのか。この物語で、紀子は、それまできれいな服を着せられていた人形がぼろぼろの服を自ら選んで自立心をしめしたような顔をする、という描かれ方をしているのだ。
この時すでに誰も彼女を取りなそうとしない。彼女はあらゆる空間からはじき出されたのだ。どこかでたかをくくっていた、もしくは状況をなめていた紀子は、最後の最後には、老親に詫びを入れつつ、自分の人生に絶望して泣くしかないのである。

大和へ都落ちした老父母の心中は、だから、いつのまにか育ててしまっていた化物-紀子に限らず、兄もそうである-を情けなく思うということにつきるであろう。しかし、自分達が育ててしまった以上彼らには何も言えない。もともとはありえなかったものを味わえたと思い「幸せでした」と呟いて満足するしかない。

 小津の作品の多くは、「破綻した家族関係」を描いている。この物語においても紀子と家庭の根本的に抱えていた破綻があるきっかけで顕然化する訳であり、その後の彼女の結婚生活のなにがしかの破綻もたやすく想像できるであろう。

ここまでくれば、「病的人格を持つ娘が自分を育てた病的な環境に対し、自分を貶めることで異議申し立てをするが、裕福な者の肉親に対するエゴイズムの前で敗北する」という構図が見えて来る。紀子という、ありきたりだが病的な娘は(つまり・・・病的だが、珍しくもあるまい!)、原節子だから演じきれたといってよい。かつ「麦秋」の描写の厚みは、「婚期を逃した娘をめぐる麗しい家族の愛」としてでも「大家族の崩壊にまつわる家族の葛藤」としてでも充分この映画を楽しませてくれる。小津の一つの頂点である。

この映画に比べればたとえば「秋刀魚の味」は、よほど人間肯定的な作品である。むろん楽しめるとは言え、「麦秋」のような底知れぬ恐ろしさ、冷酷さはない。だから遺作になったのか、「これが遺作ではちと寂しい。」のかは、神ならぬ我々には知る由もない。
「秋刀魚の味」に、「麦秋」のシーンのもじりがある。娘が心中憧れている男と一緒に電車を待つシーンで、結局この二人は、お互いに引き合うものを感じながらも結ばれることはない。「麦秋」の冒頭で互いに何も思わない、思いようの無い紀子と健吉がやはり(というよりは紀子は健吉の、俗さ加減を、途中から明らかに揶揄している)電車を待つシーンの事を考えると、はるかにかわいく、どこにでもありそうで、心に残るではないか。

 「麦秋」は、おそるべき映画である。 

著作権:稲亀石とその本人


というわけで、「麦秋」でも笠置衆が父親をやったと書いてる WSJ 、いったいなにみとるんや。
In Ozu’s “Early Summer” (1951), she again plays opposite Ryu as her father, this time boldly selecting a widowed neighbor as her husband despite her family’s objections.