本屋の主張2015/11/10 23:22

ぼっとしてたらぜんぜん更新なしでした。
いまどきは身内でやり取りする事も多く、その場でレスポンスもらったらそれでもうええわになってしまっておりまして。

ジュンク堂が、「自由と民主主義」で特集やって、それがまたいわゆるブサヨ方面に偏っていると文句言う向きがいて、ということですかね。
ジュンク堂の主張なのか、そういう店員がいるのか知りませんが。

http://www.asahi.com/articles/ASHC21V8YHC2UTIL003.html
「書店は主張しちゃダメですか 「民主主義フェア」の波紋」
藤原学思、市川美亜子2015年11月5日05時45分
「東京・渋谷の「MARUZEN&ジュンク堂書店渋谷店」が、「自由と民主主義」をテーマに開催していたブックフェアを、ネット上の「偏っている」といった批判を受けて一時中止した波紋が広がっている。安全保障関連法制の国会審議を受けて「民主主義本」の売れ行きは好調だが、類似のフェアを開く書店は客の受け止め方に神経をとがらせる。」

なにをどう売ったっていいんじゃないですかね。
知性がどうのといったところで、本を読めばよむほど、偏見を増やすだけという人はどこにでもいます。
自分の主張を補強するものしか、読まない人は、多いです。有名な話、禁煙を推奨する本は、タバコアンチな人しか読まないといいます。つまり、売れても、意味がない。

そして、そういう人がよろこんで買うものをそろえるのは商売としては間違っていません
ファミレスで、甘いものフェアやるのといっしょでしょう。

でも、思想について立場表明するということは論争を受けて立たねばならないリスク?を生むことを、自覚した方がいいとは思います。
本屋はいちおう「知の中継地」という立場を標榜して本を売るのがスタンダードなありようなので、一方的な主張ばかり集めたのであれば「洗脳する気か」という反発があるのは仕方ない。それが一方的であるということが理解できない知性の持ち主というのがばれてしまうと、馬鹿が売る本かということになって、なおさらまずいんじゃないですかね。

ファミレスで甘いものばかり出したときに健康に悪いと突っ込んでくる糖質ダイエット信者よりは、対応が面倒でしょう。
ま、がんばってください。味音痴なシェフにもファンはつくかもしれん。

2015.11.13 追記
さすがに内容はかえて再開、入門書ばかりになったような。丸山眞男がまだでてくるんやなあ。

いった店 伏見 名古屋 東京2015/11/11 00:25

ひやかみち」 伏見 沖縄料理
むかし、しらふじ、とかいう店だったところ。カウンタはあるが中には誰もいない。値段相応、すごく安くもないしすごく美味しくもないが、カウンタについた椅子はなかなか坐り心地がよい。ビール2泡盛1と突き出しプラス2品で4K。大手筋の北側には店が少ないから誘導も大変やろな、しょっちゅうビラ撒いてる。

レストランよねむら」 祇園 フレンチ風
相当日本風、食材もそうですが、肉のあとの〆に、出汁玉子ムースかけた白ご飯にたっぷりトリュフかけるとか。けっこう大箱の雰囲気、サーブは悪気もなく嫌味もないが行き届ききらない。2つのフィックスは昼は7K弱と12K。安いほうは、セールスとしては6K切りで設定するのが常道だろうとは思ったが、、、ま、少し飲んでも10Kいくまいというのは、場所内容でいうとお得でしょうし、混んでた。値段の違いは食材の違い(ウニの量とかもw)にほぼ対応すると思うが、さらに高価い夜はどうなるのか、いまいち確認する気にならないのは体力のせいですかね多分。
あまり客の相手の好きそうじゃなく見える(気のせいならすみません)ご主人ですが、こまめにお弟子の指導はしてられました。えらいなあ。外観写真は撮り忘れ。

ステファンパンテル」 御所南 フレンチ
まえに書いた「ケザコ」におられて、店出された。実質一斉スタート固定メニュですが、ランチ5Kという値段ですから仕方ないとは思う。きれいな仕上げで、なかなかおいしく食えるんだけど、いったときはあったかいスープがないのが残念だった。ファンは多い模様。
おまかせワインは、スパイスワインまで出てきて、悪乗りしていると思った。スタッフはがんばってるけど京都グレード。
体調が悪いとどうもバジルにあたるらしいことが判明、ちょっとショック。

山家」 鶏料理 北大路
20年ちかくぶりか、隣接してた鶏肉屋(ご実家)ももうやめられてる。鶏メインのカウンタもある洋風居酒屋です。そこそこ飲み食いして5K弱でいけるかな。むかしと酒も違う。安くはないけど、まあおいしくいただける、というレベルの感想ですんません。常連もどんどんきていた。




In the Green」 イタリアン 植物園北側
オープンエア風の場所があっていいのですが、にぎやかに社交的に騒ぐ客筋がいるようでうざかった。タイミング悪かったんでしょうが。内容は値段相応、おとなしくして3Kくらい、まあ5Kまでかな。。




よしの庵」 東吉野村 蕎麦
休みの日にやってる蕎麦屋で、都会の住民が休みにここまでやってくるのにあわせて、あるじさんも休みの日だけ都会から来てるんじゃないかと疑っています、蕎麦としては大丈夫です。出るのがとてもゆっくりで、予約推奨。まあ、このへん食うところないからねえ。ノンアル飲んで2Kまで。




しら河 ガスビル店」 名古屋 鰻
名古屋の鰻をおいしくいただきました、とさ。




ひつまぶし備長 ラシック店」 名古屋 鰻
名古屋の鰻をおいしくいただきました、とさ。若い衆が、炭で焼いてるのが入り口あたりで見える。




いやもうどっちも、今まで食った名古屋の鰻も、レベルはどうあれこういうもんでしょうと。甘いタレでかりかりに焼く名古屋風は、お茶漬けに向いてるのを実感した。 


餃子の舗 食」 伏見桃山 中華
餃子はしっかりしてて悪くない。日本酒多し。びみょーなあるじがへんに愛想を振りまくこともある、おばちゃん店員の多いお店。数回ランチ食ったが、夜単品でゆっくりしてもいいかもしれない。安いランチは0.7Kから、でしたっけ。




元祖くじら屋」 渋谷 くじら
内臓系などがある。おいしくいただいた。単品ひと品1K弱から。ランチもあります。たまたま隣におられた方が静岡の狩猟地図ひろげてられて話をうかがった。松山ケンイチは渋谷在住で今年初猟だそうですw




既出
天房」 品数減少中、悲しいね。 
能登」 今年はずいぶん遅くまで琵琶湖鰻あり。ひさしぶりに手長海老が入ったというのでいただきました。 



年齢と人生のステージ2015/11/11 00:47

こういう記事があって、一部で話題になってる模様。
田舎から東京に出てきた女性の、仕事と私生活と、住居の変遷を、お店情報とともにストーリーにしたもの。よくかけていると思う。

第一話目。「2015.10.04 東京女子図鑑 Vol.4 上京したての月給23万OLが選ぶ「三軒茶屋」。都会の女の第一歩はここから始まる。

ここから、40代になるまで、まあ関心があったらたどってください。

これについて、林真理子の簡易バージョンという人もいました。
でも、林真理子ほど胸糞じゃないです。
それを思えば、やはり林真理子大したもんなのかも知れんと思った。エッセイたまにみると、あれほんとに地なんですな。

年齢と、人生のステージを、もろにリンクさせて、縦型権威主義の文化特性に過剰適応している感じです。これぐらいのときにはこれぐらい、という。こういうものの考え方すると、いつ始めたってええやんかということにならないので、キャリアに関する柔軟性がなくなってしまう。それを他人に強いる文化が今の日本で、科研費の年齢制限なんてこれそのものです。
出産については年齢は仕方ないけどね。

地方から出てきたという設定が重要と指摘する人がいた。
もともとのよりどころを、良くも悪くも持っていないから、年齢と役割という枠組みしか準拠できるものがなくてこうなってしまうというあたり、そのご指摘の通りでしょう。和泉でだんじりに乗るようなひとは、こういう感覚は持たないでしょうからね。
男は(社会人してる女性もですが)、仕事の世界で、けっこう、これをやるのですなあ。
これに通じた話として、地方出身者の若いもんが、東京で一斉にこれをやって、戦後の高度成長を引き起こしたといっていいでしょう。つまり、過去においては、メリットがあったわけです。

東京をぐるっとまわっておいしいものも食ってきて、でもすべて思い通りにならないのは人生の常ですよ。人口の増える高度成長期ならたぶんそこそこ波に乗れていい話になったはず。前の時代のロールモデルに乗れないのは切ない。作り話にしたってね。

ま、いいとかわるいとか正しいとか間違ってるとかいうんじゃないですが、こういう文化特性を押し通すことには、人口が減るとデメリットが増えていくようには思いますねえ。
もともとは、男女とか年齢とかによる棲み分けの知恵だったはずなんで、現状では、人材の融通がきかなくてむしろ生産性おちるんじゃないでしょうか。

「高偏差値の勘違い医師」への危惧は妥当か?2015/11/12 19:13

成績がいいだけで医師になった奴が心配だ、と書く人がいた。

PRESIDENT Online2015年11月09日 12:00「偏差値が高いだけの医師」はなぜ危険なのか - 天皇の執刀医Dr.天野篤の「危ぶめば道はなし」【14】
ただ偏差値が高いだけで漠然と医師を目指し、努力もしないで自分は選ばれた人間であるかのように勘違いした状態で医師になってしまうと危険です。医師になれば安定した生活が送れるので、早く一人前になりたいと考えるのは、まだ患者さんを診察しようという意欲が失せていないだけましなのかもしれません。自分は選ばれた人間なのだから、新しい治療を実施して有名になろうとか、患者さんを診るのは二の次で患者さんの顔がレセプト(診療報酬表)に見えて、その枚数を稼いでお金儲けができればいいというふうになってしまう恐れがあります。

それは偏差値の問題じゃなかろう
患者の顔を金として見る医者なんて江戸時代からいたろうよ。データとしてしか扱わない医者だって、どこの教室にだってころがっているぞ。

それ以前のどうにもならない、メディアの喜ぶステレオタイプな偏差値人間のこといってるのかもしれんが、そこまでのできそこないとなると、心配なんてそんなにあるんでしょうかね。

職人的な側面のあるどこの業界もそうだろうが、医者にしても、若い医者に偏差値プライドがあるというなら、指導医まで育った医者にはプライドが更にあるわけで、勘違いの出来ん坊はきっちり踏まれるようにできている。踏まれて、たいがいの医者は、それなりのふるまいを身につけていくもんですよ。
偏差値の高い人は、もともと地頭がいいか努力してきているので、コース変更の判断もむしろ早い。
そこですんなり方向転換できない人というのは、私の少ない経験ではむしろ人格障害みたいなもんがからんでいることがあるように思います。これって、偏差値がどうのという話ではすでにないですな。誤解しちゃいけない高偏差値は人格障害とかいってませんよ、どこにでもいるから、そこにもいるだけ。、

そもそも、偏差値が高いのが医学部に入るなら、それはそれで医学部にとっていいことですよ、それをどう育てるかでしょうに。

なんか、頭だけで考えてるのはむしろこの人なんじゃないでしょうかね。そんなにいもしないもんをさわやかに踏んでみせて、いったい何がしたいんでしょうかねえ、、、
ひょっとして自己紹介ですか?

ハーフのミス日本代表2015/11/14 11:55

モンゴロイドとネグロイドのハーフの方が、ミス日本代表になったことで、違和感を訴える向きもあるようですな。

ミス・ユニバース宮本さん「ハーフでも日本の代表」…ネット批判に「その人たちの考え変える」2015.4.29 11:00Sankeiexpress
「米CNNなどの取材に対し、宮本さんは子供時代を振り返り、「学校ではゴミを投げ付けられたり、差別的な言葉を吐かれたりした。肌の色や髪の毛をからかわれ、クラスメートに同じプールで泳がないでと言われたこともある」と語った。ロイター通信には、コンテストに応募した動機について、親しい自分と同じハーフの友人が自ら命を絶ったことをあげ、「『日本人に受け入れられていない気がする』と話していた友人のためにも、日本の世の中をちょっと変えたいと思った。ハーフに対する世間の見方を変えてもらいたい」と述べた。」「ネット上では、宮本さんが日本代表に選ばれると「日本代表にハーフを選んではダメだ」「日本人らしくない」などといった心ない書き込みがされた。」

まず断ると、ノーベル賞もそうですが、この手のミスなんちゃらにしても、対象は「個人」である。
だから、優秀な個人について、そいう個人のあらわれる社会であることを誇ればいいのだが、ご存じのごとく「日本の代表」というより「優秀な典型例」扱いになってしまう。

ほぼ単一の民族国家では、同質性が高いことでその個人に感情移入するほうが、気持ちがいいということでしょうかね。
だから背景がかけ離れている人が優秀だと「ズルい」的なほうに動いてしまうんでしょうねえ。

ハーフ、という」ことなので、日本の場合、これはとことんの問題にはならないでしょう。ガイジンは「まれびと」で、半ば神様みたいなもんだから、神様の娘として棚上げされるだけ、社会はインターフェースをすこし変更して対応してしまい、文化の基本はかわるまい。

こうして、体制内の「出る杭」を打とうとする体質も、ともに温存されてめでたい事なのであったw

ロシアのドーピング2015/11/14 12:27

リオのオリンピック陸上競技からロシアが排除されるんだそうで。

国際陸連 ドーピング問題でロシアを資格停止処分に 11月14日 6時43分

ドーピングにしたって、人間の技術の成果には違いない。
これはたぶん、よくいわれることなんだろうとは思いますが、いっそドーピング自由枠をつくってその中で好きなようにしてもらったらどうなんですかね。
見てるほうもそれはそれで楽しめそうな。

ついでに、そういう試合については賭けも解禁したらいいでしょう
会場でも、そういう試合は表示の五輪マークがぜんぶ黒いと。
映像配信は、高い金払った特別会員のみ。

正規枠より、よほど儲かりそうです。

この話したら、主催は神戸山口組ですかと訊く方がいた。
こんなおいしいものは、 IOC が手放すわけないじゃないですかw
お金好きですしね IOC。

ま、ローマの剣闘士みたいなもんです。
というとまた、あれは奴隷ですよという声。

ちなみに、旧東ドイツのスポーツ選手たちは、知らんうちにステロイドドーピングされて、体ぼろぼろだそうな。これは、奴隷でしょう

Doping in sport: The human misery of state-sponsored doping
By Matt Majendie and Laura Goehler Updated 1441 GMT (2241 HKT) November 13, 2015
"The innocuous-looking blue pill she was first handed by a coach as an impressionable teenager turned out to be the anabolic steroid Oral-Turinabol -- a fact she only became aware of when German authorities notified her via a letter in 1997.""A trio of athletes who were doped under the regime are known to have died prematurely in their forties, while Heidi Krieger -- the European shot put champion in 1986 -- is now Andreas, having undergone a gender transformation partly as a consequence of the physical side effects of the drugs.""She says 70% of her former fellow athletes have psychological problems which, since the organization opened two years ago, they are now able to talk about -- either in person or confidentially over the phone."

加害者の正当化と被害者の矯正2015/11/17 16:20

パリのテロであるが、中近東でのごたごたはもっとひどいじゃないかとか、テロリストにも理由があるだろうまず対話とかいってる人が、どうしても出てきますな。

こういうものわかりのいい言説は、ちょっと上から見ているような気がするところが気持ちいのだろうと思う。
で、なにをいってもいいといえばいいのだが、それを、なにもしない言い訳に使うとなると、ちょっと待てよといいたくなる。

学校でのいじめなんかでもそうである。担当教諭が、「ただのふざけと思った」というのは論外ですが、「いじめられる方にも理由がある」とか言い出すのはなんとかならないのか、いやさすがにそれを表だっていうことはなくなってきているようですが。

カンペキな人間はいない。いじめられるほうにも問題はあるだろう、しかし、それはいじめやその状況の放置の正当化に使ってはいけない。いじめにはきっちり対応するべきで、本人の問題点は問題点として別に対応すればいい話

テロにしてもである。
シリア界隈が悲惨だからこれくらいというのは、何も言っていないに等しい。それをいうなら、フランス革命で何人死んだとかいうのと一緒で、この手の相対化にどういう意味もあるものか。
東に対する欧米諸国のありようがどうかというのは、それはきっちり断罪評価すればよろしい、しかし、テロ自体をそれで正当化させてはいけない、あくまでもテロはテロで抑え込む努力を具体的に行うしかない

なにかというと、「あんたがなってないから」といって被害者を叩きたがる文化が日本にある。悪い事が特にその人に起こったのだから、なにか原因が特にその人にある筈だということです。逆に言うと、身ぎれいで潔白であれば悪い事は起こらないという信仰で、この延長線上にあるのが「9条があれば戦争は起こらない」というアレです。極度の自己責任論と9条主義は同根といっていい。立場は違っても偏狭なところはそっくりでしょ(笑

法律の隅々にまで、この、被害者を矯正wすることで問題をなくす、という思考があるので困るのである。

わかりやすいのは銃砲。
たとえば、銃砲を車に乗せて、車を盗まれて銃砲を悪用されたら、盗まれたものも過失がある、悪い、ということになってしまう。
冗談じゃない、道端に意図的に放置しておいたならともかく、犯罪行為によって入手された道具は、どうつかわれようがその犯罪者が悪い筈です。それが通用しない。
で、なにもおこっていなくとも、自動車のトランクに銃収納して、そこから離れてコンビニの便所に入ったのを見つかったら許可取り消しになる、ということが現実に起こる国なのだ。実害がなければいい、あったらそれを処罰する、にならない

問題が起こるたびに、問題が起こらないようにしろとアホメディアが騒ぎ、それをいいことに行政はルールやレギュレーションを厳しくする。
あのねえ、人間は必ず間違えるし、悪意は防ぐことはできないのだから、問題ゼロは無理だよ。システムを運用するのに必要な「緩み」はつねに残して、あとは現実の結果に応じた処罰で対処するしかないだろう。結果がどうであれこのルールはもうこれでかえない、と、しかし胸張っていえないのよね、完璧を目指すのはいいが、それを実現できないのは「仕方ない」で済ませようとしない

修身斉家治国平天下という考え方は、治める側に都合のいい理屈である。
治めるというのはなにも政治システムで上にいる人たちだけではない。ある枠組みの中で上下関係を作り上げたいものは、勝手な「役割主義」をもって、人に接する。そして、その場で、えらそうにできそうな口実を見つけて指図がましくする。
できもしない、するべきでもない「対話」をしろというのもこの種の手合いである。

なんのことはない、あなたやわたし、ほとんどの日本人がこうであることを、まず自覚するところから、反テロリズムへの連帯に関する言説を考えてはどうか。

「殺された、かわいそう」というレベル、いやそれはそれで大切な感情ではあるが、そういうレベルで右往左往するから、「あっちではもっと殺されている」でゆらぐのです。
ましてや、フランスの政治や中東の状況について冷静に語る言辞をみても「テロを正当化している」と感じてしまうようではねえ。
戦う相手をきっちり解析できなければ、はじめから負けているではないか。

追悼原節子 そして「麦秋」について2015/11/26 19:57

原節子(敬称略)がなくなりました。さいごのほうにでられた映画じゃないが、天の岩戸から出てこなかった感じです。

ビデオで映画を見るというのが80年代後半広がるまでは、映画は映画館でしかみられないもので、テレビでもやるにしても映画館で見るのとは別物で、古いもの、珍しいもの、は、わざわざやってるところをみつけたら都合付けて見に行くもんだった。
小津はビッグネームであるから、ちょこちょこ特集されていた。千日前松竹にオールナイトで4-5作いっぺんにみたことがある。どれもこれも、似たような筋やなあというのがそのころの感想。

当時のマイクに声をひろわせるためにか、喋り方もとにかくはきはき滑舌がよく、怒鳴るだけでなにいってるかわからないいまどきの映画とは別物である。
大学のころの、私の持ちネタは、小津作品での、笠置衆や、原節子の、しゃべりマネであった。
RIP

原節子は、いろいろ映画はあるにしても、小津のいわゆる「春3部作」によって世界の映画史に残ったといえる。「晩春」「麦秋」「東京物語」ですね。
この3部作で、原節子のカウンターパートとなった笠置衆は、キャリアのはじめから老け役だったと揶揄されることが多い。原節子とは親子の世代をやったりするイメージで、この3部作でも、「晩春」では実父、「東京物語」では亡夫の父、というのはそのままですが、「麦秋」においてだけは、兄妹になっている。この2人の関係が映画の軸になっていると考えねば、「麦秋」のみで笠置衆が兄役をやった説明が出来ない。

そこからいろいろ考えて、むかし、「麦秋」についてこんな文を書いた。かなり前です。紋切りな表現がいっぱいあって恥ずかしいねえw
おもえばちょっとメンヘルっぽい女性と知り合う機会があって、こんなことを考えてしまったというところ。ピントはずれというなら許してください。似たようなことをいってる人がいたらごめん。
オリジナルサイトを明示しない引用は禁じますww

ネタばれしますが、そもそも、「麦秋」みた方じゃないとこれわかりませんからね、あらかじめお断りしておきます。「麦秋」は、見る価値ありますよ。デジタル修復されるんでしょうね、これも。


「麦秋」論 ~架空の家族考証

小津安二郎の映画「麦秋」に関しては従来より、大家族制の崩壊と核家族への移行をテーマにしたものとされてきた。
確かにそれは正しいであろう。というよりは、起こっていることは正確にそれらのテーマをなぞっている。
にもかかわらず、原節子の演じる紀子のありようの異様さはどうであろう。この映画において、家族の離散は決して社会情勢等から不可避に導き出されるものではない。あくまでも紀子一人の異様な行動から引き起こされるのである。
みんな、原節子の美しさに騙されて気がつかないだけなのだ。

よく見てみれば回答はすべて映画の中にある。
まず専務。彼女の上司であるこの恐ろしく口の、そして多分性格も悪い専務の事を、紀子はどう思っているのか。この専務は、仕事ができる、若い、格好がいい、男っぽい、と、映画のある種のヒーローたるべき条件をあざといまでに全て備えて登場する。紀子の友人の母の料亭で、専務が居ることを知ったときの紀子のはしゃぎ方は、只の部下の反応とは思えない。にもかかわらず専務の眼の前での見せつけるような事務的な態度と優秀さは、紀子が心中、既婚者である(このことは終わり近くで明らかにされるがもちろん登場人物は知っているはずだ)この専務に恋しているとは言えないまでも、慕っている事を確信させる。兄に対する生意気さと裏腹に、彼女は専務にはあくまでも従順である。そして自分の地位に安住している。
だからこそ縁談を専務が持ってくること自体に彼女はショックを受けるのだ。

一方で彼女に戦死したであろう兄が居たことを我々はやがて知る。この亡兄に対するありようも異様である。亡兄からの、自分のところにきたわけでもない手紙を欲しがるという行為も逸脱しているし、その手紙をくれようという亡兄の友人でやはり戦争帰りの男(つまり出来の悪いコピー)と、その後ころころと結婚に転がり込んで行くことを思うと、公式的には戦死の確認されていない亡兄に恋に近い気持ちをもっていたことは明らかで、今も持ち続けている、というより、中途半端な状態ではその気持ちが正常な形に修正されようがないのある。

こういう精神構造の持ち主に「恋愛」が出来るだろうか。不可能だ。
だから健吉は格好よくあってはいけないのである。
健吉の描かれ方の悲惨さはどうだろう。紀子の家族からはついに健吉を「立てる」声はきかれない。紀子の結婚が家族離散の契機にになるとはいえ健吉が相手で無くとも起こり得ることではあるし、大家族をそのまま維持できる相手を見つける方が難しいかも知れない。にもかかわらず、最後の夕食に至るまで紀子の家族の健吉に対する無視は徹底している。彼はあくまでもあまり有能とは言えない医者、人のよい小市民である。ヒロインの恋の相手ではない。
だがそれをいちばん自覚しているのは健吉自身である。彼は紀子との結婚を考えたこともないし秋田に行くのも「自分にはいい口だ」と納得してしまっている。二・三年で東京に戻れると、本人を含む誰も信じてはいまい。
母から、紀子が結婚してくれると聞いたとき、彼は戸惑い、状況の異様さを直感して逃げたい程だったのではないか。ここで彼の、狂言回しとしての物語は終わるのだ。そしてこの後映画に登場することはない。

健吉の上司でもある紀子のもう一人の兄周吉(笠置衆)は、最初から、大家族の主宰者であり紀子と対立する存在として登場する。「エチケット」に関する紀子と兄の徹底した反目をみれば、紀子の心中でこの兄が敵に近いとらえ方をされていることがわかる。医者・家長であった故に出征せずに済み、鎌倉住いであったため結果的に焼け出されることもなく、「戦前」をおそらく半ば肯定的に感じているであろう兄に、その戦争で愛するもう一人の兄を見失なった紀子が感情移入できるわけが無いのである。老父母をいだいて兄中心に大家族制の威信が面目上維持されてきた家族の中で、紀子は完全な異分子である。ところがその異分子にこの大家族はその豊かさを半ば負っているわけで(というかそのためだけに存在が認められているのだが)、しかも紀子の実質的な重要性にも拘らず、例えば父母にとって、幸せだ幸せだと言いながら風船を見て思い出すのはあくまでも兄の幼い頃である。

だから、この結婚に周囲が反対すればするほど彼女は突っ張るのである。
無理矢理兄が潰そうとすれば潰れたに違いない。しかし、兄がそういう事をする性格の持ち主でないことは紀子自身が既に「そういうひとよ」と宣言してしまっている。更に、専務のもってきた縁談に対する応対からして兄自身反対する口実が無い。その上、老父母を大和へ追い返しさえすれば経済的な問題も何とかなってしまう(彼の口ぶりは、追い返さなければならない立場を嫌がっているだけで、追い返すこと自体に抵抗があるとは思えない)。下らない男を相手に無断で、つまり、面子を潰された、のが唯一の問題になる。

老父母は紀子とその兄に養われている被庇護者である。三世代同居の一見大家族制に似た状況だが実は、老父母はもともと戦争前後の一時的な避難として紀子を連れて息子の家に転がり込んだ居候であり、かってはなんらかの収入もあったろうが(未だ売文はしているらしい)今となっては、紀子の存在のみにその正当性を得ているだけの、いつかは帰るべき存在なのだ。大和のおじいちゃんというのはその預言の為やってきたのである。だからこの結婚を聞かされたときの母のやつれかた(時間として数分の事であり場所も同じであるにも拘らずライティングの変化ですごい影が顔に出来る)や、踏切の前に座り込む父の姿は、決定的な通告を受けたときの絶望した人間の姿を描いてすさまじい。

しかしそうしてまで結婚する相手の家庭では、より貧困であろうが、「大家族制の崩壊」などは起こり得ない。健吉は、例えば母との別居など考えもしまい。彼の生活は戦前の小津による「長屋物」におけるそれに近い。紀子の家庭と対照的であって、高価なおもちゃやショートケーキをあっさり買い入れる紀子の家庭に上がり込み、そのショートケーキの追加を臆面もなく欲しがる健吉は笑いを誘う。だが、謙吉はそんな風な貧乏生活も、母と別居してまで改善しようとはしまい。また、彼の母もそれを受け入れはしないだろう。逆に、紀子の家庭で、紀子の去った後老父母を大和に帰さなければ生活がどうにも成り立たないとは思えない。老父母が紀子とともにやってきたとき紀子はほんの女学生と語られており、少なくとも彼女のかせぐような収入はなかったはずで、しかも終戦前後である。そのころに比べ生活は格段に-少なくとももんぺをはかなくてもいいほどに-楽になっており、そこへ、兄の子を差し引くと就学前の子供が一人増えているに過ぎない。

紀子が、悲惨な状態に飛び込んでみせることで自らの属していた「大家族」の嘘を暴き、崩壊させる。これは、身を呈した復讐でなくて何であるか。その時健吉を選んだのは、健吉が、紀子にとって最も結婚を、男を感じさせない人間であったからに他ならない。健吉の家族に対し、紀子は嫁、もしくは義母として侵入する。だが、妻になるという認識は出来ただろうか。実際最後の最後まで、紀子は、自分が結婚するとは思ってはいなかったのではないか。

その後の紀子の行き方は、だから、周囲を傷つけた事に対する正当化に終始する。また周囲もそれを手伝うことになる。お互いに自分を納得させたいのである。
まず砂浜での兄嫁との会話。小津にしては珍しくクレーンを用いたことで有名なこのシーンはしかし極めて薄気味悪い。一体このシーンに通してみられる会話の不自然さ、胡散臭さをどう考えればよいか。自分の結婚を後付けの理屈で正当化しようとする紀子と、それを額面通り受け入れて名目だけでも大家族、もっと言えば兄の威信を維持しようとする兄嫁との八百長的戦いと考えるしかないではないか。そのうえ、今後の紀子の生活の「いろんなこと」の不安を兄嫁は只強調するだけである。兄夫婦とその子達の金銭に関する敏感さはもっと注目されるべきだ。紀子は「なんとかなる」「そんなに苦にならない」つまり、経済的負担はかけない、と繰り返さざるを得ない。思えば、家族と紀子のつながりはこれだけだったのか。兄嫁の「安心した」という台詞で、紀子は切り離されるのである。

友人である料亭の娘との会話にも紀子が自分を納得させようとする有様はみられる。健吉の何処がいいのか答えられないのは、単に、何処がいいとも思っていないだけの話だ。「惚れてるのよ」と解釈したい友人に、しかし紀子は諾かない。男として認識できない相手に惚れようが無いからである。こうしてこの病的に不幸な娘は、自分の属したかも知れない社会を、家庭の主宰者を、最後にこの友人に手を引かれて無理矢理垣間見させられることになる。そのとき後悔はなかったか。しかも、その独身の友人は、紀子の結婚することの無かった「条件の良い」相手に会ってみたかったのだと思えば、この展開も無惨である。

さらに、それより前、紀子が専務に挨拶に行ったとき、専務は、「俺ならどうだい、もっと若くて、独身なら」と、たとえ冗談としてでも言っているのだ。この時紀子の顔はうつしだされない。しかし、だからこそ見ているものは、おそらく全く変わらない彼女の笑顔と、醜く歪む彼女の心をたやすく想像できる。もしこの台詞が最初にきていたら、紀子はきっと専務の見合いにのって結婚してしまっていたであろう。

かくして最後の別れの夕食に映画は突入する。既に決着はついている。紀子の反抗は周囲の対応で完全に無力化された。確かに家族は離散する。老父母が紀子と同時に切り捨てられるわけで、実質的には、三人のくる前の状態に戻るだけだ。しかし紀子の憎んだ、老父母を背景にした兄の威信は、名目上は、完全に維持され、そのままひそかに人々は兄とその子供を中心とした新秩序に移行する(子供達の傍若無人なこと!)。であれば、紀子の反抗は何だったのか。

この時の兄の「紀子もこの家にきたときはまだお人形のようで」という台詞は象徴的だ。
家族は紀子を畢竟一個の人格として認めてはいなかったのではないのか。この物語で、紀子は、それまできれいな服を着せられていた人形がぼろぼろの服を自ら選んで自立心をしめしたような顔をする、という描かれ方をしているのだ。
この時すでに誰も彼女を取りなそうとしない。彼女はあらゆる空間からはじき出されたのだ。どこかでたかをくくっていた、もしくは状況をなめていた紀子は、最後の最後には、老親に詫びを入れつつ、自分の人生に絶望して泣くしかないのである。

大和へ都落ちした老父母の心中は、だから、いつのまにか育ててしまっていた化物-紀子に限らず、兄もそうである-を情けなく思うということにつきるであろう。しかし、自分達が育ててしまった以上彼らには何も言えない。もともとはありえなかったものを味わえたと思い「幸せでした」と呟いて満足するしかない。

 小津の作品の多くは、「破綻した家族関係」を描いている。この物語においても紀子と家庭の根本的に抱えていた破綻があるきっかけで顕然化する訳であり、その後の彼女の結婚生活のなにがしかの破綻もたやすく想像できるであろう。

ここまでくれば、「病的人格を持つ娘が自分を育てた病的な環境に対し、自分を貶めることで異議申し立てをするが、裕福な者の肉親に対するエゴイズムの前で敗北する」という構図が見えて来る。紀子という、ありきたりだが病的な娘は(つまり・・・病的だが、珍しくもあるまい!)、原節子だから演じきれたといってよい。かつ「麦秋」の描写の厚みは、「婚期を逃した娘をめぐる麗しい家族の愛」としてでも「大家族の崩壊にまつわる家族の葛藤」としてでも充分この映画を楽しませてくれる。小津の一つの頂点である。

この映画に比べればたとえば「秋刀魚の味」は、よほど人間肯定的な作品である。むろん楽しめるとは言え、「麦秋」のような底知れぬ恐ろしさ、冷酷さはない。だから遺作になったのか、「これが遺作ではちと寂しい。」のかは、神ならぬ我々には知る由もない。
「秋刀魚の味」に、「麦秋」のシーンのもじりがある。娘が心中憧れている男と一緒に電車を待つシーンで、結局この二人は、お互いに引き合うものを感じながらも結ばれることはない。「麦秋」の冒頭で互いに何も思わない、思いようの無い紀子と健吉がやはり(というよりは紀子は健吉の、俗さ加減を、途中から明らかに揶揄している)電車を待つシーンの事を考えると、はるかにかわいく、どこにでもありそうで、心に残るではないか。

 「麦秋」は、おそるべき映画である。 

著作権:稲亀石とその本人


というわけで、「麦秋」でも笠置衆が父親をやったと書いてる WSJ 、いったいなにみとるんや。
In Ozu’s “Early Summer” (1951), she again plays opposite Ryu as her father, this time boldly selecting a widowed neighbor as her husband despite her family’s objections. 

同性婚と、同性愛者を嫌がる上司2015/11/29 20:01

こういうアンケート結果があるらしい。

「同性婚「賛成」過半数も抵抗感 初の意識調査」 11月28日 16時44分
同性どうしの結婚に「賛成する」と答えた人が全体の過半数に上る一方、友人が同性愛者だったら「抵抗がある」と答えた人が半数を超え、社会的にはLGBTの存在を認めつつも、身近な存在としては抵抗感を感じているという実態が浮き彫りになりました。」「職場の同僚が同性愛者だった場合、40代の男性管理職で、「嫌だ」と答えた人が71.5%に上りました。」

私の場合、「感情的にはどうでもいい。理性的には、今後の社会を考えると同性のパートナーシップは何らかの形できっちり認める必要があると思う」、なんですけど(すみません)、その選択肢がないなあ。

同性婚については、単身ではどうにもならんのでどんな形であれ家族的な形でセーフティネットをつくらせようということですよね。
同性でも結婚の形とった方が、婚外パートナーの形でやるより、法体系をいじくらなくてすむでしょうから、そっちに進むんでしょうかねえ。

しかし管理職の拒否反応はちょっと面白かった。
そういう男性は、つまりは女性を見るときに、まず「性的対象である」というところから一歩も動けなくて、そこから同性愛者の心理を類推しちゃってるということですかね。
こういう上司のもとにいる女性のほうがそもそも危ないんじゃないですか。