京都でフレンチやイタリアンを食うこと2013/12/01 21:43

日本でのフレンチイタリアンについてつらつら。

もともと日本のもんじゃない外国料理なんだから、日本の金が集まる東京のレベルが高いのがあたりまえです。
京都あたりでは、ビストロレベルが分相応。金持ちも高額接待も限られるし、しかも和食に多く流れるのだから、高級フレンチイタリアンのレベルを上げる圧力も、数を増やす圧力も、圧倒的に低かろう。
贅沢品は金かけてなんぼであります。家庭料理じゃないんだし。

しかも、京都の旦那方は、同伴や舞妓連れてとなると、気の張る時間のかかるもんじゃなく「洋食」にいってしまうのである。もちろん高額だが、気楽に、ちやほやしてくれ、というのがよくわかる。社会活動として当然ありですよ、これは。
「ミクニ」は、祇園で、フレンチではなく洋食屋をはじめた。舞妓が呼べますw 京都でのビジネスについていろいろ考えてこうなったんでしょう、どういう経緯かうちにも案内状がきた。名簿業者に委託して医者にばらまいたんじゃないでしょうか、私はミクニ系列の店に住所を置いたことはない。





京都大阪がある程度の都会だから、関西にもトップクラスのフレンチイタリアンがあってほしいというのはわかるが、しょせんうごく金の規模が違うのだ。大洗や名寄(なぜそこ?w)にトップクラスのフレンチがないのと、理屈は変わらない。

だから、フレンチの伝統のない日本の田舎にオーベルジュつくって、というのも、目指す方面はわかるが競争や切磋琢磨の半端ない都市部でのレストランにくらべれば、日本の場合、格落ちしても仕方ない。べつのものを楽しむ場所でしょう。
よしんば傑出した個人が店を作ったところで、それでおわりです。分野がそこに存在しないのであって、その個人がずるずるレベルダウンしていくだけになってしまうんじゃないですか。
田舎には田舎の地元料理があって、それを売ればいいのです。

懐石系和食になるとさすがに以前は文化中心だった京都という田舎の地元料理だけある。「茶道」というのがそもそも接待そのものです。あまりに多い寺しかも本山の周辺に法事も仏事も多く、和食に大金を出す機会がかけはなれて多かったために洗練されまくった末ですか。

東京の和食は実は大正期以降上方化しているのだから、味の違いがどうのといっても意味はない。東京のトップレベルの懐石店名が「京昧」なのだしねえw
いまさら八百善にいきません罠。

なににしても「分野のレベルは、客の数とおちる金できまる」という、あたりまえのことでよいでしょうかね。
人が集まればこそレベルは上がる。都会のよさはそこである。日本のレベルを維持するのであれば、総人口が減ってもなおのこと、東京に人口を集めるしかない。

行った店 鰻 京都 イタリアン 東京 ほか2013/12/05 21:02

「鰻屋すみで」 山科小野 うなぎ
カウンタと座敷の、外環ぞいドライブイン風鰻屋。炭で地焼き、歯ごたえがあって私は好きですが、柔らかいのが好きな人には向かない。よいうなぎです。




う巻きは片栗粉まぜてるようなもっちりした食感、肝焼きは一人には多い。どうも一品がびみょーではあるなあ。場所が辺鄙なのが難。客がいないと早めに終わるようなので注意。すっぽん鍋もある。


炭焼きうなぎ おぜき」 京都千本上立売 うなぎ
店頭で鰻を焼く魚屋の奥が、なかなかきれいな小庭の見える座敷になってて、うな丼とうなぎ定食が選べる。一品はない。ビールなどもなかったようだ。
うな丼は 3.5K、炭で地焼き、部位により歯ごたえがあったりやわらかかったり。白いご飯に載ってくる。ご飯にたれはかかってない。ほしかったらどうぞと甘いたれをつけてくれますが、酒分の飛んでない焼く用のたれで、ごはんにかけるには向かないし、かけなくても全部おいしく食える。よいうなぎです。
謡曲がラジカセから流れてた。14時くらいまでしかイートインできないし、しかも日曜は休みなんだし、どういう層がターゲットなのかよくわかりません。魚屋のついでに、ほんとについでに、やってるのだけはわかるのですが。


「うな良」 くいな橋西詰め 京都くいな橋 居酒屋
40歳代のご夫婦か。よさげなものがいろいろ充実した居酒屋。加えて、うなぎもある。
「瑞玉」のように下焼きされた切り身を、冷蔵庫から出して、ロースターであぶる。白焼きは半助つきだった。蒲焼は身側にのみタレつけるから皮はちょっと硬い。うまきうざくはあるけど、肝はない。
鰻を店名や箸袋につけてトレードマークにする割りに鰻分薄いとは思いますが、こんな辺鄙なところで、楽しく飲んだついでに鰻がいただけるならそれでいい、かな。ご主人は馴染み相手だとよくしゃべられる模様。


ちょっと鰻疲れしてきたが、あと3軒はいきたいところがある。


「スープ屋さん」 不定開業 京都
むかし船岡山南でスープカレー屋やってられた北海道出身のあるじ夫婦が、年に2回ほど週末に京都で店をされる。で、常連にメールで知らせて、みんなうろうろ食いに行く仕組み。晴明神社近所だったが、いつもそうなのかは知らない。




もはやカレーはまったくなし、よくわからない薬草風味のスープにごはん。唐揚げは、豆腐系のものをあげてると隣の席の人がいっていた。30代後半中心の常連たちは、みなダウンジャケットかその類を着て、見事に同じ雰囲気、「お金はそんなになくてもこだわりをもちたい」感じの普通のひとたちで、ご無沙汰を語りながら、接待係の女性と盛り上がる。町家の狭い土間で、テント屋台みたい。準備も非常にゆっくり。
教えてもらってふつうにスープカレーくうつもりでいったが、常連でもないのに場所時間とってほんまに、すまんかった。


「トルナヴェント」 西麻布 イタリアン
ピエモンテ料理ですと。本場を知らんのですが、おいしかった。東京のフレンチイタリアンはそれなりに金出すとほんとレベルは高い。京都くんだりだと、あれ?とおもうところがたいがいどっかにあるのですが、そういうものがない。




量は多いのでシェアして、ワインをグラスにすれば、ひとり2万はしない。板書きの品数は多すぎる。サーブに問題はないが人手がやや少ないので、余裕をもってのんびりするといい。

いった店 京都 鰻やフレンチほか アニカラ2013/12/15 09:17

「梅乃井」 柳馬場御池下がる 鰻
食堂風の有名店。鰻を使った寿司もやってるので寿司屋の組合にも入っておられるそうな。江戸風、よい鰻。う巻きうざくもちゃんとしてる。




「ごとし」 高倉二条下がる 居酒屋
魚をメインに、燗酒を飲ませる。きれいな店内で、客年齢層は高い。あるじご夫婦は40くらいか。




相手が年寄りだからか、刺身じゃなく調味するものは味がずいぶん濃いように思う。

最近の京都の和食が味が濃いという人がいるのは、淡い味じゃわからん年寄り客がメインだからじゃないのか?
和服は、それに金使う層とともに高額化高齢化し、その層が死んでいくとともにあっというまに廃れた。
和食もこのままじゃそうなるぞ、ユネスコ云々はそれを見越した動きなんでしょうが、若手和食料理人が若年から中年層あいてに新店出してそれがどんどんやっていけなきゃねえ。ビストロやバルの勢いが和食にはない。


「野村松花堂」 二条御幸町 フレンチ
ドイツ中心に修行されたもよう。いまどきそっちを表に出したほうが売りになるような気がしますが、フレンチで売ってる。




ビストロ扱いする向きもあります。和食風のみためで、量もちょっと少ないかなと思った。でもまあ余してる人もいたし腹具合かな。京都相応。

「セラビ C'est la Vie」 四条大和小路上がる 喫茶洋食
みかけ普通の喫茶ですが、きっちり肉叩いて揚げて、カツにしなすった。まともなビフカツでよろしいです。






祇園で飲む前に腹を満たす店か。ピラフ食う、通勤途上の嬢もおられました。
ここのおもて地下のグリルミヤタは廃業し、テナントはそのまま。貸すほうは居抜きでやりたいんでしょうね。


「カルバドール」 寺町二条 バー
カルバドスがメインですがほかにも当然いろいろおいていて、入り口外観からは想像もつかない、とても感じのいいバー。




かいわいのビルの二階の、ドアのリンゴのマークが目印。看板も表示もなく、建物のおもてからはわかりませんが、一見でも入れました。

「鯛寿司」 四条河原町近く
カウンタのみ、キャパ10数人。ややお歳のご主人と歳離れてそうなおかみさんが愛想よくやってる。混んでるが、直前でも電話(必須)したらあいてることある。お造りのほかアナゴ(下処理済を袋から出しては)焼いたりホタテ焼いたり。ねぎま汁いい。プラスてきとーににぎってもらって、8K。一人で行く感じじゃないな、2-3人でうるさいこといわず楽しく過ごすのがいい。むこうには、新ゼミ生5人連れた指導教員の感じのグループもいた。


ほか既出から。
「能登」 琵琶湖鰻が鮎の簀にかかって入荷、よろしかった。猟期に入って天然鴨も入荷している。ただ、たまたまか、えらく味(山椒や塩)が濃かった。要注意。
「のと与」 鰻地焼きを京都で、一品で飲んだうえで食うというと、ここが、無難ではあるなあ。昼遅めにはいるとほかの個別客3人がみな女性だった。

京都で、江戸風の鰻は値段はともかく内容はちゃんとしてることが多いのに、ひきくらべて、地焼きの店で、炭焼きかつきっちり鰻関連一品のできるお店がこうも少ないのは、魚屋がついでにやってるからですかねえ。

鰻ですが、「祇園浜松屋」は休業中。食べログでみかけた「京らんまん」は店自体がなくなってた。厳しいなあ。


ところで、 JOYSOUND-UGAへの不満だった「わたしの恋はホッチキス」の非収録ですが、最近収録されてリクエストできるようになった。




ボイスアシストつき。
澪と唯の声だからって、要らんのだけどなあといってたら、長浜のラウンジの女子が、リモコン表示からはいって、アシストの声を消すやりかたを教えてくれた。あんた偉い。

アニカラ  2012/10/10 23:26

これでやっと前に書いた環境 ↑ に近づいた。

これはなにかね京都大学新聞2013/12/26 11:53

もと高校の先生が英語でがんばって教授にまでなったのはえらいと思うけど、あまりにアホな内容で、さすがに理解不能。知性の問題をここまで無防備に言語の問題にすりかえるかな。
無意味な「英語覇権論」を垂れ流すのもやめてほしい。言語が思考を規定するのはわかるが、それをその言語使用主体民族がコントロールできるという幻想はなんなのか?ネイティブスピーカーに言い負かされて悔しかったのだろうか。民族国家と言語がほぼ同一である日本人ならではの発想ですが、この発想のどこがグローバルなのか。
「ボクは英語の専門家だから、英語教育の問題点も知り尽くしてるよーーん」というアピールに見える。はいはい立派。。

人口が密集しないと社会のレベルは上がらない。田舎に人がいないのがけしからんといっても、実際に人口が分散したら社会そのものが消滅するのは過去の歴史を見ればわかる。
これはサイエンスでもかわらない。

すくなくとも医学系では現状では論文雑誌は英語論文が基本で、そうじゃない雑誌もまともなとこはフランスだろうがスペインだろうが英語の抄録つけるんだから(PubMedもこれでひっかかる、と思う)、英語でのやりとりを基本にしてなにがいかんのか。
べつにみんな異文化理解したいわけじゃなく共通言語でサイエンスしたいだけなんだし。

けっきょく、これを掲載するにあたっての京大新聞の結論は「大学構内に英語だけじゃなく一般市中同様ハングルの交通標識をつけろ」じゃないのか。
インタビューワが「朴」とか「千」とかいうのも邪推に油を注ぐねえw

http://kyoto-up.org/archives/1905
寺島隆吉 元岐阜大教授 「グローバル時代の英語を考える ― 「外国人教員」「英語で授業」は何をもたらすか」 前編(2013.11.16)
「グローバル人材ってそもそも意味不明な日本語なんだけど、世界的な視野で物事を見るという意味でグローバル人材を考えるのであれば、英語をしゃべれるようになれば異文化理解というのは非常に不可思議というか、むしろ英語という眼鏡でしか物事を見れない人間を育てるから、グローバル人材と逆行してると思うんですよね。」



追加 12.28.
へんなコメントがきたので、答える義理はないですが、鬼の首とったような突っ込みには最低限の説明をした上で、再度わかりやすく書いておきます。内容は同一のつもりですが。

そのコメント、語論する気はないので全文引用はしませんが、以下のごとし。とんちんかんな要約書きやがってと思われるのでしたら、そのとおりこっちは馬鹿ですのですんませんが。

「言語の共有化で、インターフェースへの慣れを利用して、無自覚に世界観や価値観を取り込ませる、のがわかってないのか、日本だってそれをやった。MSワードしか使わなきゃ、ほかのアプリが使えなくなるぞ。医学というたんなる一分野で英語を共通言語として使っているという錯覚で、高校教師上がりだのと医学系の優越感をばらまくな、恥ずかしい」、という内容と考えますが。

べつに世界観を共有させる道具として使うことを否定なんかしていません。ことさらに日本語でそれが有効に思われたのはまさしく「民族国家がほぼ言語に一致する」からだったのです。それは書いた。

英語を日本人の価値観を共有する道具として使えるかもしくは英語では日本語的価値観が通らないかは、その英語を使うにあたっての知性の問題だといっています。
くだんの教授の論法は「英語ネイティブと英語で議論して、押し負けた、母国語で議論できれば勝てるに決まってるだろう、ああ悔しい」ということにしかみえないのですよ。ネイティブコンプレックスというか。

使用言語で質問に対する返事が変わるのはよく知られていますが、その結果引き起こされる社会的な事象はじつはそんなに違わない。知性があれば対処できることで、少なくとも大学のレベルで騒ぐことか?

加えて、アングロサクソン以外が英語をどんどんつかったとしても、これはつまりは英語がアングロサクソン以外の価値観の中に拡散しつつあるのであって、英語を使うことで世界が英語ネイティブにコントロールされるということのほうが妄想に近い。
中国人、ロシア人、インド人の使う英語は、いかに英語の文脈にのっとってつかわれていても、どうしようもなく中国人、ロシア人、インド人です。中国人、ロシア人、インド人が、下手な英語ではげしく議論するのを見れば、むしろネイティブやべえという気にすらなる。それが英語ネイティブのいない状況で行われるのをみたりするとけっこう面白かったりする。

われわれは日本語を持っているのであって、さらに英語を持つのであれば、これはすでにモノカルチャーではない。英語しかもっていない英語ネイティブより価値観の多元化に有利であって、第3言語の価値観への壁は格段に低いと思う。これはべつに英語に限りません。

しかしながら、とくに大学のような、親睦を深めるためではなく知識体系自体のやり取りの必要な組織では、幹になる共通言語がどうしても必要。
みんなそれぞれちまちましたマイナー言語でやりとりしてたんじゃ何も生まない。知識のイノベーションには人口密度と人口規模がいるのです。
この状況で、ラテン語でも使えというのだろうか。

べつに医学系に限った話ではないと思うし、実際文系、工学系で、この文章について私に似た感想を持つ人を私は見ています。私自身は医学系しか実際には知らないからそのように書いたまで。
高校の先生云々はべつに優越感は感じていない。白川静もそうであったし、えらいなあと思う。高校教師上がりで数学の大学講師やってる知人もおりますが、そんなによくある経歴ではないだろう思ったから書いたまで。
論法の内容が経歴に関係してるかは読んだ人が決めたらよろしいです。
こっちはちんけな目医者でしかない。このさき教授になる予定もないよw たかだか目医者がなんで教授さまに優越感を持つというのか。

多言語使用をけなしてるんじゃないし、マイナー文化への目配りや、言語間の価値観の違いを否定する気もないです。言語が内容を規定することだってそのとおりだと思うよ。

「英語による世界征服がやばい」という、現実的にほぼ意味のない煽りを、大学構内の道路標識に英語しかないことを枕にしてはじめるのがお笑いといっているのです。

いった店 1日3鰻あわせて5鰻 ほか2013/12/29 16:58

うなぎだらけで今年を終わる。

「うなぎ 徳」 京都高島屋7階 鰻
いろいろ上品であった。




歳召したご婦人たちがゆっくりうなぎを食ってらした。まあ、そういう店。


「祢ざめ家」 伏見稲荷 丼もの屋
お稲荷さんというと、お正月にはみな道端で焼いてるウズラをみるだろう、これがその店、並べて鰻も焼く。写真は店内から。




ガス遠赤外ですが、なかなかに香ばしく、ぷっくりしている。ご飯は固め。観光地環境で夜は早い。昼から、ウズラなどでいっぱいやって、うな丼で仕上げたら仕合せでしょう。メニュには、一般から姿を消した雀もある。

「錦魚亭」 京都大丸西側路地入る 居酒屋
居酒屋、夜だけのようです。ちょっと大きいがバイト運営大バコ店ではない。鰻は蒲焼白焼きうな重のみ。下処理したラップ包みの鰻を調理するのは居酒屋標準。たれはよいたれ。自前で育てるんじゃなく錦で焼いてる店から分けてもらうとか。そりゃ専門店じゃなし焼く数からしたら勝負にならんですわな。




居酒屋形態だと鰻だけではなかなか済まない。日本酒の種類がやたら多いが基本冷酒。軽く飲み食いして5K程度。

以上3店は1日で回った。

「舞坂」 京都中央卸市場西 鰻
まえは河原町に支店があった。すっぽんもやってる。うなぎの一品は標準的なものが4つほどあって、全体的に安い。ランチは特にお得。鰻は、あまりかりっともぷりんともしてないが地焼き。昼休みなし。




水槽に天然鰻も飼われていて100g2000円ですと。そっから切り身をもらうわけじゃないから個体まるごと買いでしょう。1尾1Kgくらいで、蒲焼なら3-4人前だそうな。それで鍋とかやってもらえるんだろうかと、ふと。

「花遊小路 江戸川」 四条河原町かいわい 鰻
江戸式。「やげんぼり」チェーンのもと。建物はあたらしい。くりからとか、京都ではめったにないものも含め一品が多い。うまきはでかい。平日昼ひとり呑みだったら、串をいくつか頼んだ上で、平日ランチでお得なうな丼梅のセットにするのがいい。
注文すると、下焼きした串を蒸し器に入れるところから始まる。香ばしくふわっとしていて、たれはそんなに甘くない。




昼も夜もせめてあと30分遅くまでやっててくれたらいいのに。カウンタは場所により外気が直撃するので注意。

祇園の「う桶や う」はここのチェーンなのでもういいか。あの桶みると一人で行けるようには思えない。

鰻屋、京都のまちなかでその気になったときに入れる店は、あと数軒リストに残るのみ。
来年は、市内行き残しのほか、西京極や周辺部に何軒かあったり、高級うなぎ料理屋があったりするのを、ゆっくり回ってみよう。

 「Le Refuge ルフージュ」 木屋町団栗下がる フレンチ
値段は大変手ごろだし、トピナンブール的芋つかったり料理内容もしっかりしてお値打ち感はある。夜だったのですが空いてた。
塩きつ目に感じた。パンがなんだかでしたが値段的に仕方ないか。テーブルワインもボトルは見せない。階段は急。エスプレッソは機械故障中、紅茶はアールグレイです。応対はまともで、ほっといてくれるので気楽。
2人で1万いかないオーダーであれこれいうのもなんですけど、、、、そもそもの設定をもっと高くして、あちこちちょっと手厚くしてももいいのではないかしら。
名前が発音しにくいし、すまんけどこの単語は英語の refugee (難民)のほうが先に頭に浮かぶ。食べログはアルファベットでは出ない


「喜幸」 四条河原町あたり 居酒屋
正統派居酒屋の外観。30代50代70代の3人の和服女性がやってて、遠くからの客やらが土産もってくる。「京都ならでは」なのだそうで、地元の話をしているのが今熊野あたりのことだったり、まあ京都ですけどね。



ビールやお燗の銘柄を目の前で間違えるのが印象に残った。半人前量での対応あり。3皿食って3本飲んでほぼ7Kはちょっとお高めですが、観光客のベースキャンプとしていいと思う。

「大市」 千本 すっぽん
ほんまにすっぽんのみ、それも鍋しか出ない。コークスで赤熱の鍋など、詳細はあちこちで語られてるからパス。キラーコンテンツを持つのって強いんだなとありきたりな感想。一人23K。ここの常連てどんな人なんやろう。

お安いお店から。
「四条パクチー」 四条西洞院 タイ料理
最近の店。こういうビニルでおもてからパーティションした店よくみるが、この店自体の系列はほかに丸太町だけだそうな。グリーンカレーがやたらココナツで甘かった。ライスは香り米。値段は日本の定食屋並み。


おもてにタイ文字らしいものが書いてあって数字もあるが、あの数字は、タイバーツで注文したときの値段か?それだけは気になる。
タイ人らしい客がきたら、タイ語しゃべる人がでてきて、応対していた。

よく行く店はすべてこともなく。
「大珉」 大宮や西院の大珉がなくなったという噂だの馬仙山がどうかなったという噂だの、いったい大珉グループどうなんやと思っていましたが、大手筋のここはあいかわらず家族でまったりやってられた。

感想 アニメ「境界の彼方」 映画「ハンナ‐アーレント」2013/12/31 15:42

ネタバレします。

アニメ「境界の彼方」のラスト。
けっこう無理な話やなあと思いつつ、嫌いじゃないので何とか見ていたのですが、、、、
最終回の前の回から後出し設定がやたら出てきたうえに、あまりに都合よい復活オチ。映画版「あしたのジョー」で、ラストにジョーがなんとなく戻ってきたのよりもなんだかだ。
栗山未来じゃないが、不愉快です。
最後まで見たんだから怒る資格はあると思います。

おなじ京アニですと、「Free!」の最終回もええかげんなんだかだったが、「Free!」 については「俺は Free しか泳がない」を決めせりふにしたっギャグアニメだという話もあります。

私の好みでの話ですので気に入らない向きはご容赦のほど。

正月には「蟲師」新作アニメがある、、、、けど、アフタヌーンで原作となる新作読むのだが、安定投球の良作なのに、なんでしょうびみょーな「いまさら」感。ああこれだから、世の中ではリバイバルは作家を替えるのだな。

ついでに映画「ハンナ‐アーレント」の感想。
ドイツ人とユダヤ人は、権威主義的で、理屈っぽく突き詰める似たもん同士で、最悪の組み合わせなのだろうと思う。連想すると、たぶん日本人と朝鮮人も同様、最悪の似た者同士カップルだが、これはおいておく。

話自体は単純、つまり、映画にするためにいろんなものが単純化されており、「邪悪」の定義だのぜんぶするーされてしまっていて、いまとなってはアーレントの提起「凡庸な悪」のなにが問題なのかわからない。

実際の軋轢は、ホロコーストに際してのユダヤ人指導者についての解釈からきていて、ことばを濁しているがつまりはナチに協力したユダヤ人指導者(ラビ?)がいたということだろう。
避けられない状況、人間の弱さ、判断の誤り、そういったものは、人間である限りいくらでもあるのだが、それでユダヤ人指導者の過ちを正当化するのでは、おなじ理屈で、たんに役人としての仕事を何も考えずに行ったアイヒマンを正当化できてしまう。だからみんな困るのだろう。とてつもなく邪悪な敵でなければいけないのである。

過ちの図式の同一線上にひょっとするとハイデッガーもいるかも、というならなおさらである。この扱い、愛人だったからこそできるという描写に、映画では、なっている。考えずにここに至ったアイヒマンと、考えてもやっぱり戦犯寸前になって元愛人になじられるハイデッガー、 Denken するのってなんなのよという古典的な質問に立ち至る。
関係ないけど、できる哲学者が哲学的に告って、デキる過程も、なかなかあざとく描写している。

相手を、未来永劫絶対許せない不倶戴天の敵であると宣言してしまえば、対応する自分のありようも行動も制限してしまうし、自分の過去すら直視できなくなってしまうのである。
自分の将来を強力に規定するようなことはいわないほうがいい。あとで行き先がなくなる。

民族の存在そのものを否定するために否定するところで、ホロコーストは行われた。ホロコーストは人類に対する罪で、なぜならユダヤ人は人類だからだ、というのは正しい。
ただ、組織的に殺さないまでも「劣等民族」の理屈は、歴史上しょっちゅう見るのですよね。日本人関連なら前世紀のアメリカでの「黄禍論」なんてそのものでしょ。ボスニア、ルワンダ、きりがない。裁かれるのは負けたものばかりである。

個人であれば死刑終身刑というのであれば、ある民族に対する国家の犯罪の刑期は、トップの世代交代でなければ、せいぜい、国民過半数が入れ替わったらではないか。これは被害者集団の入れ替わりも当然同時に起こっている。
それよりあとに関しては、現実の被害者集団としてとして責め続ける筋はない。そもそも人生、民族の仕事はそれではないだろう。
レイプと同様ですが、被害にあって、それで人間としてこわれてしまってはどうしようもない。怒り続けるのはわかる、忘れろとはいわんし、相手を許せとも思わんが、せめて、そんな目にあった自分を許したほうがいいと思う。
まして外交的に決着がついてるなら公式的にはそれで終わりのはずである。言い続けることで利益を生む場合やめたくないのはわかるけどね。

蛇足。
その、いわゆる「人類に対する犯罪」に、日本による朝鮮併合やら中国侵略やらがまきこまれてはたまらん。東京裁判でもそうは扱われてないのだからそれで終わりだろうよ。
いつ日本が「民族浄化」を目指した?
加えて70年前の話でいまの日本人を踏んづけて好きなようにできると思うのも、おかしい。ましてや千年てアホとしか。